1263年(弘長三年)11月、北条時頼は最明寺において37歳の生涯を閉じました。戒名は最明寺道崇。
執権・得宗北条時宗の誕生
当時は6代執権赤橋流北条長時、連署は政村でした。時頼の子の時宗はまだ13歳。幕府としては、まだ眼代(中継ぎ)としての長時の執権在任が必要だったのです。
時頼が執権を長時に譲った内容の記事
ところが、翌年の1264年(文永元年)7月2日に長時は出家してしまいます。
8月5日、連署の政村が7代執権に就任し、8月10日には時宗が14歳で連署に就任します。
この政村の執権就任も時宗への中継ぎという性格のものと言えるでしょう。
1268年(文永五年)3月、18歳になった時宗が執権に就任します。時頼が出家して以来、北条得宗家が待ちに待った瞬間です。そして、政村は再び連署となりました。
このように、時頼の死後、長時・政村が執権職を継承し時宗へと引き継いでいきましたが、執権に就任する前から時宗は北条氏の惣領=得宗として扱われていた記録が残っています。
若狭国における北条氏の所領である今富名の支配者を代々まとめあげた「若狭国税所今富名領主代々次第」に、
時宗は時頼の御嫡子であり、得崇と号した。
弘長三年十二月より弘安七年四月まで、今富名を支配した
と記されています。
1266年(文永三年)6月20日、話は少し前に戻って、時宗が連署に就任した後のことです。時宗邸に北条政村・金沢流北条実時・安達泰盛が集まり、深秘御沙汰=寄合が開かれていたことが「吾妻鏡」にみえます。
このように、執権に就任しなくても、得宗である時宗がすでに政権の中心にあったことがわかります。そして、時宗政権は、北条政村・金沢流北条実時、それに時宗の姻族である安達泰盛が中核を構成していたのでした。
北条氏にとっての将軍の条件
14歳で時宗が連署に就任したとき、6代将軍宗尊親王は22歳の青年となっていました。10歳で急きょ鎌倉に下向して将軍になってから、12年の歳月が過ぎていました。
北条氏が代々世襲している執権は、将軍を補佐し、将軍の意向を幕政に反映していく役割がありました。もし、将軍が幕政に何らかの意思を示せば、執権は自らが束ねる政所や侍所を通して政策を実現していかなければなりません。
北条氏が自ら意思のままに幕政を動かしたければ、将軍は政治的に無力・無権である必要があります。
ですから、将軍は幼少であったり、あるいは政治にまったく無関心であることが必要となります。
将軍宗尊親王を追放し、惟康親王を将軍に
しかし、たとえ将軍が幼少であっても、政治に興味がなくても、幕府の象徴である以上、単純にお飾りの将軍とはなりません。
ましてや、鎌倉での滞在期間が長くなれば、将軍と個人的に結びつく特定のグループが生まれる可能性が高くなるのでした。
時宗が連署に就任したときの宗尊親王の周辺にも特定の勢力が現れていた可能性がありました。
1266年(文永三年)6月20日の深秘御沙汰である秘密会議=寄合は、若き時宗邸に北条政村・金沢流北条実時・安達泰盛が集まったのですが、宗尊親王の処遇に対する密談であったと考えられています。その内容は宗尊親王に近い者が時宗を謀殺しようとし、それが発覚したためと言われています。
前日6月19日、北条氏の被官(家来)である諏訪頼経が上洛しました。また、この日、宗尊親王側近の松殿僧正良基という僧侶が鎌倉から逃走しました。
6月23日、時宗は将軍の夫人藤原宰子と皇女倫子を山内の別邸に移し、また皇子惟康親王を自邸に迎えます。
この時宗の動きによって、鎌倉中が騒然となり、多くの御家人が時宗邸に集結しました。
6月24日、宗尊親王側近の左大臣法印厳恵という僧侶も行方をくらました。鎌倉の騒動はその後も続きます。
7月4日、6代将軍宗尊親王は女房の輿に乗って、佐介流北条時盛邸に入りました。同日、将軍職辞任を強要された宗尊親王は、あわただしく鎌倉を出発して京に戻っていきました。新しい将軍には宗尊親王の皇子惟康親王が就任します。
宗尊親王は、「鎌倉の都合」で10歳にして鎌倉に下向し、「鎌倉の都合」で京都に追い返された悲運の親王といえます。
これらの新将軍擁立の動きは、6月20日に開かれた「寄合」で決定された処置だったと思われます。
また、これ以前の3月6日。引付制度が廃止されています。重要な案件はすべて執権・連署が直接裁断することになり、それ以外は問注所で処理されることになったのでした。
時宗が始めて評定に出仕したのは、執権に就任した1268年(文永五年)3月のことでした。そして、1269年(文永六年)には五番の引付制度が再開されています。
引付制度を廃止させ、時宗が執権に就任すると再開させるといった一連の施策は、時宗が北条一族の惣領であることを明確にすることが狙いだったと言われています。
時宗が父時頼から次の惣領=得宗に指名されていたと考えられますが、時頼が死んで5年も経てば、時頼の「時宗を惣領にする」という遺志は一族の中で薄らいでいく可能性があります。
ですから、時宗が北条氏の惣領として確固たる地位に立つためには、時宗自身の政治力を一族に見せつける必要があったと考えられます。
では、なぜこのようなパフォーマンスをしなければならなかったのでしょうか?
北条氏の家督相続には必ず騒動が起こります。
二月騒動
時宗は嫡子(跡継ぎ)でしたが、長子(長男)ではありませんでした。時宗には庶兄時輔がいました。
1264年(文永元年)11月、時輔は六波羅探題南方就任のために上洛しましたが、これは時宗が連署に就任した直後のことです。この探題就任は、反時宗グループの中心となりえる時輔を鎌倉から遠ざける意味合いが強かったと考えられます。
南北朝時代に記された「保暦間記」は、まず時宗が執権職に就任したため、時輔は年来、謀反の志を持っていたと記しています。
鎌倉幕府創設以来、執権の継承が行われるとき、北条一族内で必ず内部対立が発生しています。
ですから、時輔の上洛はこのような内部対立を回避する一手段であったともいえます。
また、1268年(文永五年)と1271年(文永八年)、蒙古の使者が国書を持参し、国交を要望するという外交問題が発生しましたが、この問題に関して時宗と時輔とのあいだに政策上の不一致がみられ、対立が激化したという考え方もあります。
いずれにしても、時宗と時輔との間に不和が生まれていたことは十分に考えられます。
1271年(文永八年)12月、前執権北条長時の子の義宗が六波羅探題北方として上洛しましたが、これは蒙古の使者に対する幕府の積極策を示すと同時に、時輔に対する示威行為と考えられます。
1272年(文永九年)2月11日、名越時章・教時兄弟が鎌倉で誅殺される事件が起こりました。
2月15日、時輔が義宗に攻撃され、吉野の山中に逃れて行方不明となりました。
この鎌倉と京都での事件を「保暦間記」は「二月騒動」と記しています。
二月騒動のその後
執権が変わるとき、常に名越流北条氏は得宗北条氏とその座を巡って争ってきました。
ですから、名越氏が謀反を企てていても不思議ではありませんし、得宗北条氏がその名越氏を討つことも不思議ではありません。
ところが、名越時章はこれといった謀叛の志もなく、誤って殺害されたことが判明しました。そのため討手の5人が斬首されてしまいます。ただし、名越教時の討手については賞罰もなかったといいます。
時宗の庶兄である時輔の討伐・名越兄弟の誅殺は、宗尊親王から惟康親王への将軍更迭と政策的に同一路線上のものだったと考えられます。
得宗専制政治の本格化
北条時頼が得宗専制政治を始めたと言えますが、この頃から深秘御沙汰=秘密会議だった「寄合」が定例化していき、北条氏の惣領=得宗を中心とした身内的政治体制が確立していきます。
問注所執事太田康有の日記「建治三年記」には、寄合に常席していたのは時宗をはじめ安達泰盛など、一部の人々だったらしく、その他臨時で出席して相当の案件を評議する者がいたと記されています。
この常席者が後に「寄合衆」という形で制度化されていきます。また、その評議内容も、時頼時代の「重要=秘密」な政務と異なり、日常的なものが多くなったと見られています。寄合そのものが5日ごとの定例化された日常的会議となっていきます。
この寄合の日常化は、それまで重要案件を担当してきた既存の幕府制度を有名無実なものにしていきます。
たとえば、評定衆は若年層によって占められ、機能低下を起こしていきます。
もともと評定衆は、幕府の宿老などのベテランによって公正な評議を行うために北条泰時の時代に設置されたもので、豊かな経験が要求されていました。
ところが、時宗の時代以降、北条一族の若年層が増加したことによって、評定衆の機能低下につながっていきます。これは引付衆にもいえることでした。
さらに、引付衆を数年経験した者の中から評定衆に選任される慣例が無視されていきます。
たとえば、引付衆を経験することなく評定衆に就任したり、引付衆に就任した直後に評定衆に進む例もあらわれてきます。評定衆や引付衆が持っていた当初の目的は失われます。
このように、評定衆や引付衆が名ばかりの制度になり、得宗に近い身内によって構成される寄合によって評議されていくのでした。
参考文献
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