六波羅探題を滅ぼしたのは足利尊氏、鎌倉幕府を滅ぼしたのは新田義貞と言われています。
尊氏は六波羅探題を滅ぼしたのち、そのまま京都に駐留して勢力基盤を確立していきます。
当然、鎌倉に駐留した義貞は鎌倉で勢力基盤を確立しているものと思ったら・・・。
「いつの間にか」足利尊氏が鎌倉を手中におさめています。さらに、尊氏は武蔵守と武蔵守護に任命され、鎌倉防衛において最も重要な拠点の一つ武蔵国をがっちり押さえます。
義貞が攻略した鎌倉を、なぜ尊氏が支配しているのでしょうか。義貞は何をしているのか?
今回は、新田氏と足利氏の関わりあいについて鎌倉幕府滅亡から見ていきましょう。
鎌倉占拠
鎌倉幕府滅亡
1333年(元弘三年)3月27日、足利尊氏は、伯耆国(鳥取県西部)の船上山(せんじょうさん)に立てこもる後醍醐天皇を討伐するために幕府軍の大将として鎌倉を出発しました。
しかし、尊氏の正室登子と4歳になる千寿王は、人質として鎌倉に留め置かれました。登子は最後の執権赤橋流北条守時の妹で、千寿王は室町幕府2代将軍足利義詮です。
登子と千寿王は、尊氏が丹波国篠村(京都府亀岡市)で反旗を翻したことが幕府に知られる寸前の5月2日、鎌倉の大蔵谷の屋敷から逃亡することに成功します。
5月中旬、新田義貞の率いる大軍が武蔵国に入ると、千寿王を輿にのせたわずか2百騎の足利軍がこれに合流します。足利千寿王が新田軍に加わったことで、さらに加勢する者があらわれ、その数『太平記』では20万7千人、『梅松論』では20万人ともいわれる数に膨らみます。
鎌倉幕府の最期を時系列に紹介
そして、鎌倉幕府・北条氏は滅亡しました。
この倒幕軍については、一般的に新田義貞が大将といわれていますが、足利尊氏の嫡男千寿王も大将だった言われています。つまり、倒幕軍には大将が2人いたのです。どういうことでしょうか?
新田義貞の裏に足利尊氏
実際に軍を率いたのは新田義貞ですが、足利尊氏の嫡男千寿王がいたからこそ20万もの大軍に膨れ上がった側面は否定できません。
後で述べますが、新田義貞に20万の軍勢を束ねる力はありません。足利氏がバックにいればこそです。
もちろん、わずか4歳の千寿王が自分の意志で新田軍に参陣するはずもなく、千寿王の合流に関しては、尊氏と義貞がすでに手はずを整えていたとみるべきです。
尊氏の名代として新田勢に加勢した千寿王は「影の大将」と言えるでしょう。
また、新田一族でありながら足利与党の岩松経家、信濃の小笠原宗長、奥州白河の結城宗広らの足利氏とよしみを通じる軍勢が多く加勢しているのは、尊氏が京都から檄をとばしたからと考えるべきで、諸国の武士にも檄をとばしたはずです。
新田と足利の争い
幕府が倒れ戦火が収まると、義貞は勝長寿院に、千寿王は二階堂永福寺に陣を敷きました。
新田義貞は懸命に戦後処理を行いますが、その間に足利千寿王の陣に軍勢が続々と加わります。鎌倉での新田と足利の勢力が逆転します。
尊氏は千寿王を支援するため細川和氏・頼春・師氏三兄弟を鎌倉に派遣しました。細川氏はのちの室町幕府管領家で足利一門です。
劣勢になった新田勢は、足利勢を挑発し反撃に出ます。両勢力の衝突が目前に迫ったとき、義貞の申し入れで和解が成立したといいます。あるいは、細川3兄弟が義貞を糾弾し、義貞が謝罪したともいいます。
結局、義貞は一族郎党率いて鎌倉を離れ上京します。新田の家運を盛り上げるには後醍醐天皇の威光にすがるより他はなかったのです。
新田と足利の差
六波羅探題・鎌倉と攻める拠点は異なりましたが、尊氏も義貞も倒幕の勲一等です。
後世に生きる私たちは、足利氏と新田氏は源義国を共通の先祖にもち、尊氏と義貞は「源氏の嫡流」を巡って争ったと見てしまいがちですが、実はそうではありません。
東国武士たちが、新田義貞よりも足利千寿王のもとに集まるのにも理由があるのです。鎌倉を押さえるのは新田氏ではなく足利氏でなければならない理由があるのです。
それは、足利氏と新田氏は源義国を共通の祖とするものの、同格の家柄ではないのです。
源義国の生涯についてはこちら
上野国(群馬県)の新田荘を本領とする新田氏は、始祖新田義重が源頼朝の招きに応じなかったことで、頼朝の怒りを買って以来、幕府から冷遇されつづけます。上野の新田郡に広がった一族は、鎌倉幕府150年間を通して、ほとんど官位を与えられていません。
頼朝以降、鎌倉幕府から冷遇され続けた新田氏は衰亡の一途をたどり、足利氏の庇護に入ることで何とか家名を維持することができました。
これに対して、下野国(栃木県)の足利荘を本領とした足利氏は、始祖義康の代から頼朝の父義朝と縁戚関係にあり、保元の乱では後白河法皇側として義朝と共に主力をつとめています。
足利氏祖義康の活躍を描いた記事はこちら
義康の子義兼は早くに頼朝に帰属し、頼朝の幕府創立に貢献しました。
源氏一門として頼朝を支えた足利義兼
また、執権北条氏と代々婚姻関係を結び、三河・上総二ヶ国の守護職と諸国に多数の所領をもつ武家の名門に成長します。
1333年(元弘三年)の時点で、29歳の足利尊氏が「従五位上治部大輔」だったのに対し、32歳の新田義貞は無位無官のただの「小太郎」だったことからも明らかなように、足利と新田は家格が異なります。そして、足利氏の庇護なくして家名を存続できなかった新田氏は足利庶子の扱いだったのです。
新田氏が足利庶子の扱いであるならば、義貞の倒幕行動は惣領である尊氏の指示を受けて動いたものと考えることもできます。
さらに、新田義貞の鎌倉でのふるまいは惣領家たる足利氏への反抗とみられても不思議ではありません。細川三兄弟が怒るのも無理ありません。
鎌倉占領後に新田義貞ではなく、足利千寿王に武士たちが続々と服属したのも、関東の武士たちの中で「庶子の新田よりも本家の足利」という意識が働いたからでしょう。
もちろん、六波羅に陣を構えた尊氏が、上野・武蔵の御家人を主力とする旧幕府軍の投降者を多数受け入れたこと、六波羅上層部の武士や東国に本領をもつ西国の地頭層を配下に入れたことも、関東の武士が尊氏に服属した要因と言えます。
足利氏の奥州進出
新田氏と足利氏の話はこのくらいにして、今後の情勢を考える上で見逃せないのが尊氏の奥州進出です。
尊氏は、関東奥州の武士の間で権威の象徴と考えられていた「鎮守府将軍」の称号に加えて、7月下旬の恩賞で北条氏の旧領だった青森県の中央部・東南部と岩手県北部に当たる地域の地頭職を獲得しました。
また、足利氏の有力な支族で室町幕府管領家の斯波氏は、平安王朝時代の志波城(岩手県中部)の地を本領したと伝えらます。
新田義貞を鎌倉から追い出し、着々と関東・奥州に基盤を築く尊氏を警戒したのが、護良親王と北畠親房です。
鎌倉幕府が滅亡し、後醍醐天皇が帰京してからまだ数ヶ月の話をしていますが、誰が正義なのか分からないくらい勢力争いが激化していまね。このことが建武の新政や南北朝時代を難しくしてしまうのですが・・・。
ここまでの後醍醐親政を読みたい方はこちらの記事からどうぞ。
コメント