足利尊氏の時代

尊氏、持明院統・元弘没収地返付・室津軍議など布石を打って九州落ち

箱根・竹之下の戦いで、新田義貞を撃破した尊氏は、そのまま京都に向けて進撃を開始しました。 後醍醐天皇は、尊氏を挟み撃ちをするために奥州の北畠顕家に尊氏追討を命じました。顕家は1335年(建武二年)12月22日に奥州を出発。 12...
足利尊氏の時代

尊氏の建武政権離反・尊氏対義貞の最初の激突~箱根竹之下の戦い

得宗・北条高時の遺児北条時行とその残党が起こした「中先代の乱」とよばれる大規模な反乱は、京都から足利尊氏率いる軍勢が下向したことで鎮圧されました。 8月2日に尊氏は京都を出発していますが、喜んで尊氏軍に従った人は数知れずという状況だったよ...
建武の新政

建武政権の崩壊~二条河原落書

建武の新政は、その急激な改革によって武士を中心に多くの人々を混乱に陥れました。改革の副作用というべきものです。 後醍醐天皇が行おうとした改革は「悪い」とは言えないものも多くあります。「利権構造にメスを入れよう」とする点は評価されるべきもの...
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建武の新政

後醍醐天皇の内裏造営・貨幣鋳造計画

後醍醐天皇は、鎌倉幕府に変わって天皇の時代が到来したことを天下に知らしめるために、「元弘」から「建武」に改元を行いました。 いわく付きの元号だった「建武」の由来 この改元とならんで、天皇の時代を天下に知らしめる趣旨で起こされた事業があり...
鎌倉幕府

鎌倉幕府の成立時期に関する諸説をご紹介

学校の日本史の時間では、「鎌倉幕府の成立はいつか?」と問われれば、「イイクニの1192年、イイハコの1185年のどちらも覚えておきましょう」と教わります。一昔前までは1192年だけだったのですが、現在は1185年説が採用されています。 そ...
建武の新政

建武の新政・後醍醐天皇の主な政策

因幡国(鳥取県西部)船上山(せんじょうさん)を下山した後醍醐天皇は、途中で赤松則村や楠木正成の出迎えを受けながら、6月4日に京都へ帰還しました。 光厳天皇は皇位を廃され、光厳が立てた皇太子である康仁やすひと親王も廃されました。 そして、...
荘園

摂関期の荘園・免田寄人型荘園

8~9世紀頃に盛んだった「初期荘園」の経営は、納税のための費用が意外とかることから立ち行かなくなり、ほとんど姿を消してしまいます。 免田・寄人型荘園 「荘園中の荘園」とも言うべき「典型的な荘園(=領域型荘園・中世荘園)」は1...
鎌倉幕府

なぜ頼朝と尊氏は「惣追捕使・征夷大将軍」の就任を望んだのか?

1335年(建武二年)7月、得宗・北条高時の遺児北条時行とその残党が信濃で挙兵し、足利尊氏の弟直義の軍勢を撃破して鎌倉を攻略するという「中先代の乱」が勃発します。 中先代の乱~足利尊氏・直義兄弟と北条氏残党の鎌倉をめぐる戦い 尊氏の要求 ...
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