建武の新政

後醍醐の国司制度改革と報われない御家人たち

前回 1333年(元弘三年)6月に始まった後醍醐天皇の親政は、六波羅探題の後継であるかのように京都での勢力を拡大し、諸国の武士たちの不満の代弁者となった足利高氏の軍事的圧力によって、わずか2ヶ月で軌道修正を迫られました。...
建武の新政

鎌倉幕府を滅ぼした新田義貞の後ろに足利尊氏

六波羅探題を滅ぼしたのは足利尊氏、鎌倉幕府を滅ぼしたのは新田義貞と言われています。 尊氏は六波羅探題を滅ぼしたのち、そのまま京都に駐留して勢力基盤を確立していきます。 当然、鎌倉に駐留した義貞は鎌倉で勢力基盤を確立しているものと思ったら...
建武の新政

諸国平均安堵法と雑訴決断所~足利高氏の軍事的圧力

前回 1333年(元弘三年)6月5日、伯耆国から帰京した後醍醐天皇はさっそく親政を始めましたが、その政策は社会の混乱を招きます。 また、高氏と護良親王の対立が激しくなるなか、後醍醐天皇は高氏を政権から遠ざけます。人々の間...
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建武の新政

記録所と恩賞方~「高氏なし」の親政政権

前回 後醍醐天皇が発布した旧領回復令・誤判再審令によって、新旧領主による所領支配のトラブルが続発します。 また御成敗式目の制定以来、当時の社会に広く浸透していた所領に関するルールを無視したことで混乱がおこりました。朝敵所...
建武の新政

後醍醐の綸旨万能と武士たちの不満

前回 6月5日に、伯耆国(鳥取県西部)の船上山(せんじょうさん)から帰京した後醍醐天皇を待っていたのは、京都六波羅を撃破し、六波羅探題に変わって京都を手中に収めた足利高氏と、それ警戒して信貴山から高氏に圧力をかける護良親王...
建武の新政

鎮守府将軍足利高氏と征夷大将軍護良親王

前回のお話 後醍醐天皇自身の皇位の維持と自分の子孫への皇位の継承のためには、両統迭立の原則に立つ幕府を倒すほかに道はありませんでした。また、後醍醐天皇が理想とする「延喜・天暦の治世」への回帰のためには、(それを邪魔すると彼...
建武の新政

後醍醐天皇の倒幕活動と六波羅探題滅亡のおさらい

1333年(元弘三年)5月7日、足利高氏は京都六波羅を攻略します。京都から鎌倉に向かって落ちのびようとした六波羅勢は、5月9日に近江国番場峠にある蓮華寺(滋賀県米原市)で滅亡しました。 鎌倉幕府の京都出先機関でありながら、100年以上に...
鎌倉時代

鎌倉幕府五代将軍・藤原(九条)頼嗣の生涯

鎌倉幕府歴代将軍の中で、九条頼嗣ほど哀れな将軍はいないのではないでしょうか? 鎌倉に生まれた将軍でありながら、鎌倉幕府の政争に巻き込まれて京都に追放され、京都で短い生涯を終えた将軍頼経。 今回は、頼嗣のはかない生涯を通して鎌倉幕府を見て...
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