鎌倉時代

【嘉元の乱】北条貞時の専制政治!と思いきや北条氏の内紛というオチ。

貞時は、御家人の窮状を救うために永仁の徳政令を出しましたが、逆に社会の混乱を招きました。また、貞時は引付や越訴を廃止することができなかったばかりか、権力を得宗に一元化することもできませんでした。 →永仁の徳政令 得宗専制政治と言われ...
鎌倉時代

【永仁の徳政令】混乱を招いた北条貞時の政治

平頼綱の政治は、明らかに安達泰盛の政策を否定したものでした。 そして、今度は北条貞時が平頼綱の政策を否定します。 平頼綱が安達泰盛を滅ぼした霜月騒動以後の賞罰はすべて無効とされたのです。 また、頼綱によって失脚させられた御家人を幕府...
鎌倉時代

御内人・内管領平頼綱の政治と平禅門の乱

1285年(弘安八年)11月、霜月騒動で幕府宿老最後の有力御家人の安達泰盛は、平頼綱を中心とする勢力によって滅ぼされました。 泰盛にかわって政権の運営にあたったのは平頼綱でした。日蓮は、平頼綱を安達泰盛と並ぶ有力者と述べていま...
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鎌倉時代

【霜月騒動】御内人と御家人の戦い・平頼綱、安達泰盛を滅ぼす

得宗北条氏の被官(家来)を御内人(みうちにん)とよびます。その御内人の筆頭のことを内管領(ないかんれい)とよびます。 この内管領は役職名ではなくて、得宗家の執事という意味合い程度で、室町幕府の管領(かんれい)と異なります。室町幕府の管領も...
鎌倉時代

【弘安徳政】情けの武将安達泰盛の政治

1281年(弘安四年)、鎌倉幕府は元軍による侵略を防ぎ止め撤退に追い込むことに成功しました。 文永の役記事 弘安の役記事 翌年の1282年(弘安五年)、執権北条時宗は南宋出身の僧侶の無学祖元(むがくそげん)を迎えて、鎌倉に円覚...
鎌倉時代

【2回目の蒙古襲来】元寇・弘安の役

1274年(文永十一年)の元寇・文永の役で、元軍は謎の撤退をしました。 文永の役 元の再来に備えた鎌倉幕府 しかし、その後も元国皇帝フビライからの使者が、数度にわたって日本に派遣されています。 再び元からの使者 1275年(建...
鎌倉時代

【元寇】蒙古再来に備える幕府と西日本に拡大する北条氏勢力

1274年(文永十一年)の元・高麗軍による日本侵攻は(文永の役)、対馬から肥後・筑前の九州沿岸地域に大きな損害をもたらしました。本格戦闘はたった1日でしたが、御家人の奮闘もむなしく日本軍は敗色濃厚となったのです。 ところが翌日、元・高麗軍...
鎌倉時代

【1回目の蒙古襲来】元寇・文永の役

1271年(文永八年)8月、元使の趙良弼(しょうりょうひつ)が来日し、従わなければ武力行使もやむなしとの脅しで日本側の返書を要求しました。結局、彼は返書を与えられないまま帰国します。 そしてまた、1273年(文永十年)3月、元使の趙良弼は...
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