鎌倉時代

北条泰時、皇位継承に介入~後嵯峨天皇の即位の背景と経緯

北条氏惣領(棟梁・リーダー)としての立場が弱かった北条泰時は、評定衆という合議体制を敷くことで、自身の立場の強化をはかっていきました。 そんな泰時ですが、朝廷・寺社への姿勢は強硬的であったといえます。先々代の時政、先代...
鎌倉時代

泰時の執権政治~「評定衆と連署」の設置にいたる経緯と背景を解説

1224年(元仁元年)7月、伊賀方(いがのかた)らを中心とする伊賀氏の画策は失敗し、尼将軍北条政子・幕府宿老の後押しを得て、北条泰時は執権に就くことになります。 とはいえ、執権になった泰時の北条氏内の立場は、まだまだ弱いもので...
鎌倉時代

鎌倉時代の女性は強かった?伊賀氏の変に見る武家の相続

「伊賀氏の変」を制して、北条泰時は3代執権に就任します。 泰時の執権就任の裏で激しいバトルを演じたのが、北条政子と伊賀方です。 北条政子は言うまでもなく源頼朝の妻で、2代執権北条義時の姉です。伊賀方は義時の後妻。 泰時からすれば、政子...
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北条泰時の時代

伊賀氏の変と北条泰時・三代執権の座を巡る北条氏の内紛劇を解説

1224年(元仁元年)6月13日、北条義時は死去しました。 「吾妻鏡」によると、日ごろから脚気(かっけ: ビタミン不足で神経障害が発生し、最悪心不全にいたる場合も)があったところに、6月12日に急性胃腸炎を発して、翌日に没するという急死で...
北条義時の時代

【承久の乱】後鳥羽上皇ら京方と北条義時ら幕府の戦い

1219年(承久元年)1月27日、3代将軍実朝は、故2代将軍頼家の子公暁によって鶴岡八幡宮で暗殺されました。 後鳥羽上皇は、幕府のトップたる将軍実朝が暗殺されたのですから、将軍=鎌倉殿を失った御家人はさぞかし動揺し、幕府は混乱すると考...
朝廷

後鳥羽上皇の天才的政治手腕について簡単に解説

1192年(建久三年)、平清盛・源頼朝と壮絶な主導権争いを繰り広げ、その源頼朝から「日本一の大天狗」と言われた治天の君、後白河法皇は崩御されます。そして、次の治天の君になったのは後鳥羽上皇でした。 治天の君とは、天皇家の長者のことです。 ...
北条義時の時代

【実朝暗殺】北条義時の企て??~摂家将軍の誕生

1203年(建仁三年)9月2日、北条時政らによって、2代将軍源頼家の外戚として勢力を誇った比企氏が滅ぼされました。それから5日後の9月7日、北条政子によって源頼家が出家させられます。そして、9月15日、源実朝は12歳で3代将軍に就任しまた。...
北条義時の時代

北条義時と和田義盛の確執&和田合戦をくわしく解説

北条政子が源頼朝に嫁がなければ、伊豆の弱小豪族で終わっていたかもしれない北条氏。その北条氏は、頼朝によって歴史の表舞台に現れ、頼家・実朝の外戚という地位を利用しながら幕府内での権力を強めていきます。さらに相模国司・武蔵国司になることで、領土...
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