足利尊氏に攻め滅ぼされた六波羅探題シリーズ最終回。
→六波羅探題シリーズ
今までは、幕府の一機関としての六波羅探題を見てきましたが、今回は国家(朝廷)の軍事・警察部門としての六波羅探題をみていきましょう。
「武家」としての六波羅
鎌倉幕府の一機関なのですから、六波羅探題が武家であることには間違いありませんが、今回は朝廷などの勢力を補完する武家ということになります。
幕府の機関から国家の機関へ
六波羅探題の主な仕事は、西国の訴訟と京都周辺の治安維持です。
幕府の京都周辺の治安維持は、1190年(建久元年)の源頼朝の上洛に伴って、幕府が洛中警固を担当したことに始まります。
しかし、承久の乱より前は、朝廷の検非違使庁や北面の武士が洛中警固の役割を果たしていたので、幕府の京都での役割は小さいものでした。
この洛中警固の役割を実際に担ったのは、在京する御家人(在京御家人)たちで、在京人と呼ばれていました。
在京人は、京都で幕府への奉公をするかわりに、御所の警固を行う京都大番役を免除されていました。
1238年(暦仁元年)、将軍藤原頼経が上洛した際には、京都の辻々に篝屋(かがりや)が設置されます。以降、それが維持され篝屋番役(かがりやばんやく)となります。
篝屋とは、夜間に篝をたいて辻々を明るく照らすための施設のことです。篝屋番役は交替で在京人がつとめ、洛中警固の拠点として利用されています。
1221年(承久)に起こった承久の乱以降は、検非違使も形骸化してしまい、洛中警固は六波羅探題が主体となって行うようになります。
こうして、幕府の一機関であったはずの六波羅探題が、検非違使や北面の武士に代わって京都周辺の軍事・警察部門の役割を担うようになったのです。
朝廷や寺社などの諸勢力は、六波羅探題のことを「武家」と呼ぶようになります。ちなみに、鎌倉幕府のことは「関東」と呼んでいます。
このことから、朝廷や寺社などの諸勢力は、鎌倉幕府を東国支配の機関と見なし、六波羅探題を検非違使に変わる国家(朝廷)の軍事・警察機関と認識していたと推測することができます。
権門体制論
ここで、権門体制論という「なるほど」と納得してしまう理論をご紹介します。なるほどと思わないかもしれませんが…
歴史学者の故黒田俊雄氏が提唱した理論で、研究者たちの間で賛否両論があるようですが私は好きです(正しいか正しくないかは横に置いといて)。
権門体制論では、天皇を中心に「公家」「武家」「寺家」の権門が相互補完的に国家を形成し、「武家」は国家の軍事・警察を担当する権門と考えることです。
この考え方によれば、六波羅探題は「武家」という権門を代表して、京都周辺の治安を維持しなければならないということになります。
実際、公家や寺家は六波羅探題を「武家」と呼んでいましたから、武家権門の代表と見られていたと言えます。
鎌倉幕府も、京都周辺では権門体制論の「武家」の役割を、六波羅探題に担わせていたのでしょう。
鎌倉時代後期以降、六波羅探題は朝廷の軍事部門の如く「こき使われ」ていくことになります。
朝廷・寺社に配慮し続けた幕府
六波羅探題は権門体制論でいえば、「武家」としての役割を果たしていました。
六波羅探題は、国家の軍事・警察機関の役割を果たしていたのですから、罪人の取り締まりや処罰を行うときは、しばしば武力行使を行い、その相手が他の権門(公家・寺家)関係者のときもありました。
ところが、公家や寺家が「六波羅探題のやったことは納得いかない!」などの理由で鎌倉の幕府に訴えると、探題の指揮で動いていた武士がその責任を取らされ、幕府によって処罰されることがあったようです。
鎌倉の幕府は、六波羅探題に「武家」の役割を担わせていた割には、六波羅が行ったことをバックアップするわけではなく、基本的に朝廷や寺社からの訴えを聞き入れることが多かったようです。
承久の乱以降、朝廷と幕府の力関係は逆転しますが、幕府は朝廷に一定の配慮をとり続けているのです。
京都における六波羅探題の立場の難しさがご理解いただけると思います。
言い換えれば、北条一族は傲慢になって、公家や寺家を軽んずることはなかったと言えます。
ますます難しくなる六波羅の役割
鎌倉時代も後半になると、洛中警固から発展して、西国の軍事・警察に関わる問題にも、六波羅探題が介入せざるを得なくなりました。
1277年頃(建治三年)頃からは、両使制とよばれる仕組みがとられるようになります。
裁判を担当する機関でもあった六波羅探題は、荘園領主である本所によって提起された訴訟をスムーズに進めるために、各地に使節を派遣しました。その使節は二人一組で動いていたので、この仕組みを両使制とよびます。
使節は訴訟に関わる手続きに従うように催促したり、実情を調査・認定したりするのが主な役割です。
場合によっては、判決の内容を実現させるような行為や、軍事・警察的な行動に及ぶこともありました。
1298年(永仁六年)頃までには、本所一円地にも使節を派遣するようになります。
本所一円地とは、幕府が地頭を設置していない荘園のことで、貴族や寺社の所領のことです。
それまでは、幕府は本所一円地の紛争に介入しないことが原則だったのです。鎌倉時代前期では、本所一円地に守護が入ったりすると、幕府に抗議していたくらい、貴族や寺社は幕府の立ち入りを嫌っていました。
それがなぜ、本所一円地に六波羅の使節が派遣されるようになったのでしょうか。
実は、鎌倉時代後半になって、畿内を中心に西国では悪党と呼ばれる勢力が活動を活発化させていたのでした。
悪党を鎮圧するのも、権門体制における「武家」の六波羅探題の役割とされたのです。
初期の悪党は荘園領主に敵対する勢力で、幕府に敵対するような存在ではありませんでした。
承久の乱以来、朝廷や貴族などの荘園領主は自前の武力を持てずにいましたから、悪党は朝廷などの荘園を好き勝手に荒らしていました。
武力を持たない荘園領主たちは、畿内最大規模の武力機構である六波羅探題に悪党の鎮圧を訴え出ました。
権門体制でいうところの「武家」である六波羅探題は、公家や寺家の要請に応えなければなりません。
本所一円地へ介入するということは、六波羅探題の権限が強くなったことを意味しますが、当初は敵対関係になかった悪党と敵対していくことになります。
公家や寺家が悪党の鎮圧を要望する際、鎌倉幕府が指名されることはなかったようです。「武家」である六波羅探題が指名されたのでした。
こうして、幕府の一機関だったはずの六波羅探題は、朝廷の下部組織のような武力機関としての側面をより鮮明にしていくことになり、役割はさらに難しくなっていったのです。
六波羅から室町へ
制度や人々の継承
六波羅探題が創設した、使節を派遣して訴訟を円滑におこなう制度は、その後の室町幕府になっても維持されました。
特に北条一族が守護であった国では、六波羅探題の残した仕組みの上に室町幕府の制度が成立しました。
訴訟を担当するグループである引付方は、鎌倉幕府や六波羅探題は5つ置かれていましたが、初期室町幕府でも5つ置かれています。
六波羅探題の訴訟に関わる仕組みは、室町幕府に受け継がれていったのです。
室町幕府を開いた足利尊氏が二階堂是円らに諮問し、それに対する答申という形で書かれた「建武式目」では、鎌倉幕府評定衆らの官僚を継承するよう示されています。
実際、室町幕府の機構における有力な担い手は、六波羅探題に属していた文士系の評定衆や奉行人層です。
彼らは探題とともに滅亡することなく、生き残って建武政権や室町幕府に仕え、故実や作法を集積して後々までの活動規範を形成していきます。
六波羅探題と室町幕府は、文士や奉行人といった個人レベルにおいても連続していました。
室町幕府の直轄軍である奉公衆も、六波羅探題の指揮下にあった在京人(在京御家人)の系譜に連なる者が多くいたといいます。
在京人の中には、かつて承久の乱で幕府に敵対した後鳥羽上皇側についた西国武士もいました。
彼らは六波羅探題の成立にともなって、探題の指揮下に組み入れられています。
また、所領を獲得して西国へ移住した東国出身の武士が、在京人となった例もあります。
在京人の多くは、六波羅探題の滅亡に際して京都から敗走する二人の探題(仲時と時益)と行動をともにはしなかったのです。
室町幕府が成立すると、彼らの多くは幕府直轄軍である奉公衆の一員となっています。ここにも六波羅探題と室町幕府の連続性をうかがえるのです。
室町幕府を開いた足利尊氏も、当初は六波羅に拠点を置き、のちに洛中に居館を構えます。
権門「武家」の継承
今まで見てきたように、様々な面で六波羅探題と室町幕府は連続しています。
そして、六波羅探題と室町幕府の最大の連続性は権門における「武家」が継承されたことではないでしょうか。
鎌倉幕府と室町幕府は同じ幕府でありますけれども、権門の「武家」という視点に立つと、室町幕府は鎌倉幕府よりも六波羅探題の後継ではないか?と思うのです。
このように、鎌倉北条氏によって生まれた六波羅探題は、足利氏によって室町幕府へと進化したと私は考えています。
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