六波羅探題。ろくはらたんだい。
響きが格好いいと思いませんか?格好いいと思うのは私だけでしょうか?
その存在の大きさの割には、歴史の中で「しれっ」と出てくるだけの扱いに悲しさを感じていますので、当サイトはある程度、六波羅探題についてお話ししています。
今回は、六波羅探題の「中身」が整っていく様子をお話ししましょう。
前回は、探題の長官と役割についてお話しでしたので。
六波羅の機構整備
まず、六波羅の訴訟に関わる仕組みについて見ていきましょう。
評定衆・引付の設置
鎌倉幕府の最大の仕事は何か?と聞かれれば、訴訟問題を解決することといっても過言ではないしょう。
幕府と御家人は土地を介して成立している以上、土地に関わる訴訟問題を公正かつ迅速に解決することが一番大切な仕事なのです。訴訟を解決することが幕府にとっての行政かもしれません。
御家人たちの華々しい合戦についての記事を増やしたいところですが、当サイトでは大変地味ですけれども、鎌倉幕府の「本来の仕事」に目を向けていきたいと考えています。
当時の社会を観察して、浮かび上がってきた人々に思いを馳せることが当サイトの目的でもありますので。
さて本題へ。
六波羅探題は当初、承久の乱で京方を破った鎌倉方がそのまま京都に残りましたので、京都占領軍という性格が強かったといえます。戦後のGHQのようなものと言えるでしょう。
そのため六波羅探題の役割も、混乱さめやらぬ畿内の治安を回復することが中心でした。
その後、鎌倉幕府において政治機構が整備されてくると、六波羅探題でも少しずつながら政治機構の整備がすすんでいきます。
幕府の西国での支配が強まるにつれて六波羅を整備していく必要が生じてきたのでしょう。遠い鎌倉からでは何かと不都合があったでしょうから。
まず、鎌倉幕府とおなじく、六波羅探題にも評定衆や引付方がおかれていきます。
六波羅の評定衆の原型は、1246年(寛元四年)から1247年(宝治元年)頃までには成立していたと考えられています。
鎌倉の評定衆は1225年(嘉禄元年)に成立しているので、六波羅では鎌倉から約20年遅れて評定衆が成立したことになります。
1263年(弘長三年)、鎌倉で引付衆をつとめていた後藤基政と関戸頼景が上洛し、六波羅の機構整備をすすめます。
この年、北条時頼が死去しました。時頼はすでに執権を辞していましたが、執権・得宗が没すると必ずと言っていいほど北条一族内で内紛がおこります。
執権は赤橋流北条長時が就いていますが、次期執権と黙されていた時宗はまだ14歳。西国での幕府の基盤を強化しておく必要性があったのかもしれません。
六波羅探題は、西国(三河・加賀より西)で起きた裁判を管轄しましたが、重要な案件は鎌倉で裁かれていました。六波羅探題は幕府の下級審的な役割、つまり鎌倉幕府が最高裁判所ならば、六波羅探題は高等裁判所・地方裁判所の役割を担っていたことになります。
なぜ、下級審的な役割しか与えられなかったのでしょうか?
六波羅探題は京都にありましたから、多くの権限を与えすぎた結果、朝廷と結びついて鎌倉に反抗する可能性を幕府は心配したからではないでしょうか?
事実、承久の乱では六波羅探題の前身京都守護から後鳥羽上皇側についた者もいます。
六波羅探題の長官には、北条氏から任命されていますが、得宗家と親しい一族が任命されています。これも朝廷との結びつきを危惧していたからでしょう。
六波羅の引付については、1278年(弘安元年)頃までに制度が整えられたようです。1296年(永仁四年)には、幕府と同じように引付方は五番編成となっています。
重要性を増した六波羅での訴訟
鎌倉の引付と同等の規模になったということから考えて、訴訟が増えたと考えられます。
その主な原因は蒙古襲来です。九州に所領をもつ御家人が奮戦し撃退したのですが、色々幕府に不満がたまったようで、竹崎季長のように直接鎌倉へ訴える御家人も現れました。
幕府は御家人に異国警固を命じながら、恩賞沙汰を行わなければならないという難しい舵取りを迫られます。事情に疎い鎌倉からではなく、京都から迅速に処理しようと考えたのでしょう。最終的には鎮西探題が設置されて、九州のことは九州で処理が行われるようになります。
西国支配の要としての六波羅探題
1275年(建治元年)、佐介時盛が上洛します。時盛はかつて17年間(1224~1242)にわたって探題南方を勤めた人物で、彼とともに引付衆であった伊賀光政・二階堂行清・町野政泰ら幕府官僚も上洛しています。これによって探題首脳部の人員が強化されました。
六波羅探題一覧
1277年(建治元年)、北条時村が鎌倉から上洛します。時村は前執権で幕府宿老だった北条政村の子で、それまで幕府評定衆・二番引付頭人でありました。この時にあわせて、15人程度の探題評定衆も選定されていて、鎌倉による六波羅の抜本的強化が行われたといえます。
このように、六波羅探題は建治年間(1275~1278)に大幅に整備されますが、西日本の守護も抜本的強化策が行われています。幕府は元の再来襲に備えて西日本全体の警備を強化のために、大規模な守護職の交替を行いました。建治年間(1275~1278)ごろまでにはほぼ完了しており、六波羅探題強化と同時に行われたようです。その守護には多くの北条一族が任命されています。
建治年間(1275~1278)より前、北条一族が守護職に就いていた国は西日本31か国+北陸道の一部3か国を加えた34か国中9か国でした。
ところが、この建治年間以降、北条氏は15か国、姻族の安達氏が1か国で守護職に就いており、西日本・北陸34か国中ほぼ半数の16か国を占めました。
得宗家を中心とした北条一族による六波羅探題と西国の守護職の強化によって、元の再来襲に備えるとともに幕府の西国支配を確実なものとしていったことがわかります。
また、悪党の活動もこの頃から活発化しており、六波羅探題の役割がさらに重要になっていきます。
むすび
東国の地方政権だった鎌倉幕府は西国へ勢力を拡張するにつれ、六波羅探題に西国支配の中心的役割を期待し、六波羅にミニ鎌倉幕府を創設したと言えます。そして、朝廷と結びついて鎌倉幕府に反抗できないように、探題には親得宗家の一族を送りこんで統制をしています。
次回は、長官としての六波羅探題にスポットを当ててみます。
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