日本の中世では、僧侶がブレーンとして政治に参画し、その影響力は計り知れないものがありました。
当サイトが扱っている鎌倉・室町時代から下って、徳川家康の頃には金地院崇伝や天海大僧正なんかは超有名なブレーンですね。
南北朝時代にも、天海や崇伝ほど有名ではありませんが、活躍した僧侶がいました。
その名は三宝院賢俊。「将軍門跡」と言われるくらい尊氏とともに行動した僧侶です。北朝と幕府において絶大な権力を掌握し、夢窓疎石とともに政治・外交等に影響力を与えていました。このことから、幕府政治のブレーンとして活躍した僧侶の派閥は、賢俊の三宝院出身派と夢窓疎石の五山禅宗寺院派に分かれていくことになります。
尊氏との出会いと武家護持僧へ
三宝院賢俊は、1299年(正安元年)に誕生しました。父は大納言日野俊光です。持明院統と大覚寺統に分裂した両統迭立時代にあった中、賢俊の兄資朝のみが大覚寺統に属し、後醍醐天皇の側近として仕えています。兄資朝は、後醍醐天皇の倒幕計画が失敗した、1324年(正中元年)の正中の変で鎌倉幕府によって佐渡に流され、1331年(元弘の変)で佐渡で処刑されました。
父俊光をはじめ、兄資名などの他の兄弟はいずれも持明院統として活躍します。後醍醐天皇が隠岐に流されていた元弘年間は、持明院統の時代ということもあり、それを背景に賢俊は醍醐寺三宝院賢助大僧正に師事し出家しました。醍醐寺は、中世の真言宗を大名する寺院で三宝院はその筆頭となる塔頭です。豊臣秀吉の「醍醐の花見」はこの三宝院で行われました。
鎌倉幕府が滅亡して、大覚寺統後醍醐天皇の建武政権になると、持明院統は逼塞しますが、賢俊の動向は明らかになっていないようです。後醍醐天皇に重用され、醍醐寺座主にも就いた文観上人によって逼塞していたと考えられています。
1335年(建武二年)8月に中先代の乱を鎮圧した尊氏が建武政権に反旗をひるがえして京都に攻め上るも、北畠顕家・新田義貞連合軍に敗れて九州に敗走することになった1336年(建武三年)2月、賢俊は新田義貞以下与党誅罰の光厳上皇院宣をもって足利尊氏の陣に赴きます。
これによって、尊氏は朝敵の汚名から逃れることができ、京都に幕府を開くことに成功します。このことによって、賢俊は尊氏の帰依を受けることになり、これ以降、将軍尊氏・義詮や直義の護持僧、つまり武家護持僧となって各種の祈祷を執り行うようになりました。
賢俊の出世と公家護持僧になるまで
ところで、九州から攻め上ってきた尊氏が入京する直前の、1336年(建武三年)6月3日に、賢俊は光厳上皇院宣をもって権僧正に任じられ、文観に替わって第65代醍醐寺座主に任じられています。尊氏が光厳上皇に醍醐寺座主を斡旋したと考えられていて、光厳上皇からの院宣を賜ることができたことに対する恩返しでしょう。
賢俊の醍醐寺座主就任は1357年(延文二年)までの22年におよび、その間、寺内は三宝院をはじめ偏智院・金剛王院など10以上の塔頭、荘園においては山科荘・近江香荘など数十ヵ所を所有しました。
1340年(暦応三年)に第125代の東寺長者となり、途中で交代しながらも15年間続きました。さらに、京都六条左女牛の若宮八幡宮別当・紀伊根来寺座主なども兼任しています。
また、後光厳天皇即位の際には、北朝に神器がない状態でしたが、賢俊が後村上天皇が行宮としていた石清水八幡宮が陥落した直後にかわりの神鏡を探し出し、なんとか体裁を整えることができたと言われています。
この功績により、公家護持僧も務めるようになり、公武双方から絶大な信頼を獲得し、政務に大きく関与することになったのです。
賢俊の死と三宝院・日野氏の発展
1357年(延文二年)閏7月16日、尊氏に先立って59歳で没します。
賢俊の功績により、三宝院は寺内における地位を確立し、その門主は朝幕間の間に独自の位置を占めるようになります。賢俊の弟子光済大僧正は、将軍義満の信任を受け、その弟子満済准后は義満の猶子となって、三宝院は門跡寺院となります。以来、門主は将軍の子弟、もしくは摂家などから入って将軍家猶子となる者が輩出されます。
そして、この時代に日野氏が朝幕内で躍進し、政治的影響力を強めます。日野俊光以来、持明院統で高い地位にあったこともありますが、賢俊が尊氏に影のごとく従い、信頼を得ていたことは無視できません。将軍家が日野氏を優遇したのも賢俊が発展の素地を作っていたからと言えるでしょう。
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