公地公民から荘園制へ

荘園
スポンサーリンク

荘園。中世の日本史を勉強すると、この言葉がやたらと出てきます。

したがって、当サイトも荘園を抜きに話すことはできません。中世は荘園を巡って動いていく歴史とも言えるからです。

ここでは、荘園ができるまでの過程について見ていきましょう。

 

スポンサーリンク

公地公民制

645年に乙巳の変(いつしのへん)が起こり、中大兄皇子と中臣鎌足によって蘇我蝦夷・入鹿が滅ぼされます。

そして、翌646年から「大化の改新」が始まります。

「645年大化の改新」と覚えた人。今は違うらしいです。

大化の改新では、今まで豪族が保有していた私的な所有地を否定し、土地と農民はすべて朝廷のものと定めました。これを公地公民制といいます。

班田収授法

652年、班田収授法(はんでんしゅうじゅのほう)が制定されます。朝廷は公地を、農民の身分に応じた広さの土地を貸し与え(口分田),農民から租・庸・調(そ・よう・ちょう)税を徴収しました。

要するに、「国が国有地を国民に貸し与え、そこで取れた作物を国に納めろ」という現代から見れば理不尽にしか思えない政策ですね。

この税の取り立てはとても厳しかったようです。

さらに男は徴兵にとられ,60日間無償労働させられるという雑徭(ぞうよう)や、国が利子をつけて種を貸し出す出挙(すいこ)が課せられていた。

ものすごい搾取をしているのであります。

当然、それらの重税に耐えられずに逃げ出す農民が続出しました。

したがって、農民の逃亡が増えたので、荒れ果てた口分田が増加します。農村から逃亡した農民である浮浪人(ふろうにん)と言いますが、5人に1人にのぼったと言われています。

土地は荒れ放題、作物の収穫は減りますし、開墾地も増えません。朝廷の収入が減ることを意味しました。

三世一身法

荒れ果てた農地の増加によって、朝廷の税収は減ってきました。そこで、朝廷は723年に三世一身法(さんぜいっしんのほう)を出します。

これは、土地開墾のモチベーションを上げるために、開墾者から三世代(本人→子供→孫)まで土地の所有を認めたものです

自分が耕した土地は孫までは自分のものです。なんかうまくいきそうですよね。

しかし、これも長続きしません。なぜなら、3代目は頑張っても土地の所有は自分の代で最後なのですからやる気が起こらなかったからです。

墾田永年私財法

そして743年。新しく開墾した土地は完全に私有化してもよいという墾田永年私財法が制定されます。大化の改新から100年。公地公民制はここに正式に幕を下ろします。

私有化が可能になっても、朝廷に納税する土地であります(輸祖田)。朝廷は、開墾した土地を私有化していいから、ちゃんと税を納めてね。という方向に舵を切ったのでした。

現代の法人税や所得税に近い仕組みと言えるのではないでしょうか?

むすび

公地公民制から墾田永年私財法までを見てきました。この墾田永年私財法が荘園の始まりといえます。そして、この荘園制こそが、武士誕生の源になっていくのです。

スポンサーリンク
荘園
スポンサーリンク
スポンサーリンク
幻了をフォローする
スポンサーリンク
あなたの隣に室町幕府

コメント

タイトルとURLをコピーしました