743年の奈良時代。聖武天皇の御代に発布された墾田永年私財法によって、新しく開墾した土地は私有地と認められるようになりました。
これらの私有地は、のちに荘園と呼ばれるようになります。
荘園のはじまり
新しく開墾した土地を、そのまま放置して終わりという持ち主はいないはずで、だいたい田畑にします。当時は作物を作ることが一番の有効利用だからです。
田畑を作るということは作物を育てるわけですから水が必要になります。ですから、どこからか水を引っぱってくる必要があります。いわゆる用水路です。
しかし、朝廷は「国の用水路を使うのであれば、新しく開墾した田畑は国のものとするよ」という決まりを作っていましたので、完全に私有化するには用水路も自分で整備する必要がありました。
用水路を造るというのは、大変な労力とお金がかかります。
結局、一般の農民には無理な話で、大規模な豪族や有力貴族が新しい土地を開拓していきました。これが荘園の始まりです。
大化の改新で、豪族の勢力を削ぐために私有財産を否定して、土地や人々は朝廷のものとする公地公民制にしましたが、結局私有財産を認めた形になりました
ただし、大化の改新の前とは違って、私有地といえども朝廷に税金を納める必要性はありますので、朝廷にとっても悪い話ではありませんでした。
初期荘園
豪族や貴族が保有する私有地には、朝廷へ納める税金が課せられていましたが、有力な寺社には免税にされました。
墾田永年私財法が制定されてから6年後の749年。東大寺の大仏建立をきっかけに、朝廷は東大寺に4000町歩(1町歩=1万平方メートルなので4000万平方メートル)の土地を開墾しても良いことを認めました。広さのイメージがわきませんね。
東大寺ほどではなかったものの、法隆寺や興福寺といった有力寺院にも荘園を認めました。
このような背景から、豪族や貴族、大寺院が荘園を所有するようになります。
これらの荘園を初期荘園といいます。
(当時の人が初期荘園と言っていたのではなくて、後世の私たちが平安時代や鎌倉時代の荘園と比較して議論するために初期荘園と呼んでいるだけです)
初期荘園を開拓する人たちは,貴族や大寺社が抱えていた奴婢、口分田を捨てて逃げ出した浮浪人、近くに住む農民でした。
そして、意外なことに、農民には給料が払われました。もちろんお金ではなく米で支払われています。農民の力を借りて成り立っている荘園では、収益が5分の1程度減ったといわれています。
また、朝廷に献上するために、年貢を輸送する費用も荘園領主が負担したので,都から遠いところでは荘園経営が成り立たなかったといわれています。
初期荘園が近畿・中国・北陸地方に集中しているのは、遠いところでは荘園の経営は無理だったからということがわかりますね。
平安時代初期の9世紀になると、貴族や大寺社だけでなく、天皇家自身が自らの財政をおぎなうために勅使田(ちょくしでん)を開墾したり、天皇の子供である親王のために親王賜田(しんのうしでん)をどんどん開拓しました。
また,貴族たちは私有地に荘官(しょうかん)を派遣しました。荘官は荘園の開墾を監督し、倉を作っていきます。収穫された農産物はこの倉に納めるわけですが、この倉のことを「庄所」「荘」とよび、地名を付けて「○○庄(荘)」と呼びました。これが荘園の呼び名のはじまりといわれています。
むすび
初期荘園は、貴族や大寺社が開拓した土地が多くを占めていました。さらに天皇家も私有地を開拓するようになります。
荘園領主は荘官を直接荘園に派遣し、その荘官が直接管理しました。さらに、年貢を都に運ぶ費用を荘園領主が負担するなど、一連の経営に直接たずさわっていたことも特徴の一つです。
初期荘園から中世の荘園へ
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