守護と守護大名の違いを解説

室町時代
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鎌倉時代は守護、室町時代は守護大名という名が頻繁に出てきます。

守護とは何なのでしょう。守護と守護大名は何が違うのでしょうか?

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守護

守護のはじまり

守護の語源は、国司が国内の治安維持を、そこに住んでいる武士にあたらせ、彼らを国守護人と呼んだことに始まるとされています。平安時代の後期から使われはじめたようです。

鎌倉時代の守護は、朝廷の国司の国守護人ではなく、源頼朝、あるいはそれ以降の征夷大将軍が配置した守護のことです。

1180年に駿河と遠江に守護が配置されたのが最初と言われていますが、源平合戦の頃はまだ守護とは呼ばれていません。惣追捕使(そうついぶし)と呼ばれていました。

惣追捕使とは、朝廷が諸国に配置した警察・軍事をつかさどる役職です。兵糧調達や兵士動員の権限も持っていました。

源頼朝は、平氏追討の名のもと、西国に惣追捕使を配置していきます。つまり、朝廷の役職を利用したのです。

1185年、平氏が滅亡すると、源頼朝は後白河法皇に惣追捕使を任命する権限を返上しています。このことから、惣追捕使は有事の職名で、平時は存在しなかったのではないか?とも考えられています。

平氏滅亡後の1185年11月に源義経・行家が鎌倉に対して挙兵すると、北条時政の奏請により義経・行家討伐のために「守護(惣追捕使)・地頭」が全国に設置されました。

1190年に源頼朝が日本国惣追捕使となり、全国に惣追捕使を配置する権限を持ちます。

1192年以降、征夷大将軍こと鎌倉殿が惣追捕使任命の権限を持つことになります。

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そして、徐々に惣追捕使から守護へと名前が変わっていきます。

守護の確立

初期鎌倉幕府のその権限は、まだまだ西国には及ばず、影響力は東国のみ。西国は朝廷や寺院の勢力がまだ強く、幕府が任命した守護が任につけないなど、ギクシャクしておりました。

そして、幕府が全国に守護を置くことができるようになったのは、承久の乱で後鳥羽上皇を中心とする朝廷を撃破してからです。時に1221年。

承久の乱後、1232年に御成敗式目(貞永式目)が制定され、守護の権限が明記されます。

  1. 御家人に対して京都・鎌倉大番役を催促する権限。
  2. 謀反人の捜索逮捕
  3. 殺害人の捜索逮捕

これらは大犯三箇条と呼ばれています。

 

 

また、国司の権限への介入を禁じ、朝廷の公の領地である国衙領に立ち入ることも禁じました。

とはいえ、もはや時代は武士の世。守護は、次々とその国に住む武士を家臣にしていき、国司よりも圧倒的な力を持つようになります。

その守護を独占していくのが北条氏です。北条氏はライバルの御家人を次々と倒し、幕府で圧倒的な存在となります。

北条氏の守護国は、1200年頃は2カ国でしたが、幕府滅亡の1333年には38カ国となっていました。

 

守護から守護大名へ

守護の権利拡大

室町幕府も守護制度を引き継ぎます。

私の勝手な想像ですが、当時の人々にとって室町幕府というのは、滅亡した鎌倉幕府の延長に過ぎず、支配者が北条氏から足利氏に、場所が鎌倉から京都に変わった程度の認識ではなかったのではないだろうか?と思っています。

例えば、現代日本において自民党から民主党に政権が移った感じ。もちろん、簡単に比較できませんが、北条党から足利党に変わった感じではないだろうか?と思うのです。

鎌倉時代の守護は北条一門が独占していきましたが、室町時代の守護は足利一門が独占していきます。

「幕府のトップ勢力が守護を独占するもの」という論理でもあったのではないのか?と、思ったりするわけです。

ということで、当時の人々は室町幕府のことを、鎌倉幕府の延長とか、再興したものと考えていたと思うのです。

室町時代の守護の任務は、御成敗式目の大犯三箇条を引きついでいますが、刈田狼藉の決断権使節遵行権が付与されました。

刈田狼藉は、稲を刈り取る実力行使で、武士間の所領紛争の際、土地の所有を主張するために行われました。

使節遵行は、幕府の判決内容を現地で強制執行することです。

室町時代の守護は、警察・軍事だけでなく、武士間の紛争へ介入する権利と、司法執行の権利を新たに獲得することになりました。

守護の経済力強化

1352年、室町幕府は半済(はんぜい)令を発布します。これは、兵糧など軍事物資の調達を目的に、国内の荘園や国衙領から年貢の半分を徴収することができる権利です。

荘園は公家や寺社の私有地、国衙領は国有地です。いずれも武家の土地ではありません。その土地から年貢を徴収するということです。

当初、半済は戦乱の激しい3国(近江、美濃、尾張)に限定していましたが、他の守護たちが「我も我も」と半済令の発布を幕府に要望し、半済は徐々に各地に拡がっていきます。

特に、1368年の応安の半済令は、年貢の半分を徴収する権利だけでなく、土地自体の半分割も認める内容でした。これをきっかけに、守護による荘園・国衙領への侵出が激しくなっていきます。「御成敗式目って何?」状態です。

ちなみに、室町幕府は「建武式目」を制定していますが、これは幕府の方針であって、幕府の基本法は「御成敗式目」です。

 

 

さらに、守護は荘園領主らと年貢納付の関係を構築し、実質的に荘園への支配を強めるという守護請(しゅごうけ)を行うようになりました。この守護請によって、守護は土地自体を支配する権利、すなわち下地進止権(したじしんしけん)を獲得していきます。

守護請は、平安時代の荘官のような役割を果たすようになりますが、荘官と違うのは荘園領主に年貢の一部を送るということはせずに、すべて自らのものとし、さらに荘園すら自らの所領としていったことです。

また、国家的行事や寺社の造営など、幕府の臨時的な事業のために田の面積に応じて賦課した段銭や、家屋ごとに賦課した棟別銭の徴収は守護が行うこととされました。守護はこの権利を利用して、独自に領国へ段銭・棟別銭を賦課・徴収し、経済力をますます強めていきました。

守護領の形成

守護は軍事・警察・司法権と経済力を背景に、それまで国司が管轄していた国衙領を自らの所領とし、国衙領の被官を自らの家臣として組み込むことによって、守護領(しゅごりょう)を形成していきました。

また地頭・名主といった国人をも家臣にしていきました。こうして守護は、国内の支配を強めていったのです。

守護大名へ

室町時代の守護は、軍事・警察権能のみを有した鎌倉時代の守護よりも強大な力をもつようになったことから、鎌倉時代の守護と区別する意味で守護大名と呼ばれます。その守護大名による支配体制を守護領国制といいます。

 

むすび

単なる警察・軍事の役職だった守護が、自らの権利を拡大して領国経営を行うようになっていく過程をご覧にいただけたと思います。

守護大名は、もともとは守護ですが、権限が強化された時点で領民や豪族からみれば新しい勢力です。新しいものには必ず抵抗が起こります。守護大名の領国経営は不安定なものだったようです。

室町幕府が、義満や義持の時期を除いて不安定な政権だったのは、このような不安定な守護大名の連合の上に成り立っていたからといえるのかもしれません。

 

 

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