足利義詮が二代将軍になって、最初に幕政の中心から脱落した守護大名は仁木義長でした。この義長没落の黒幕と言われたのが、幕府執事の細川清氏と畠山国清です。
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今回は、義長の次に幕政から没落した畠山国清について没落の経緯を見てみましょう。
畠山氏
畠山氏は足利一門ですが、鎌倉幕府草創期の御家人で「坂東武者の鑑」と言われた畠山重忠(平姓畠山氏)の家名を継いだ名門です。
畠山重忠の乱で平姓畠山氏が滅亡すると、その家名再興を望んだ北条時政が足利義兼の庶子だった義純を重忠の未亡人(北条時政の娘)と婚姻して継承されました(源姓畠山氏)。
ちなみに、畠山重忠を挑発して滅ぼしたのは北条時政ですが、この件に関しては義時や政子・御家人からの批判がすさまじかったので、畠山氏を再興してその批判をかわそうとしたと言われています。
国清の軍功
国清(???~1362?)は、尊氏の建武政権離脱のときには、尊氏軍に従軍し、南朝の押さえとして戦略的に重要な紀伊の守護に任じられて、幕府で重用されていました。
国清の活躍が目立つのは、観応の擾乱からです。
1350年(観応元年)10月、師直派によって幕府から追放された足利直義が京都を脱出すると、国清は尊氏・直義のどちらにつくか態度を明らかにしませんでしたが、直義が南朝に下るとそれに呼応して、自領の河内石川城に招き入れました。
直義は、国清の支援によって尊氏・師直派を追い込み、ついにはライバルの師直を滅ぼします。国清はその恩賞として引付頭人の地位を獲得します。
>>>↑↑↑の話は「第1次観応の擾乱」と呼ばれます。詳しい記事はこちら。
国清の絶頂期
国清が直義を裏切るのは、尊氏・義詮父子が直義を京都から追放し(直義が京都から脱出した)、さらに尊氏と直義の和議の会談が決裂してからです。
直義は北陸から鎌倉を目指すことになりますが、国清が尊氏に寝返ったことをきっかけに、尊氏派から直義派に寝返っていた武将は、再び尊氏派に寝返っていきます。
そして、1352年(観応三年)1月に尊氏は直義を降伏させ、直義は謎の急死を遂げます。
>>>↑↑↑の話は「第2次観応の擾乱」と呼ばれます。詳しい記事はこちら。
国清の裏切りによって尊氏は直義に勝利したことから、尊氏の国清への褒賞は大きく、武蔵守護に登用しました。武蔵守・武蔵守護は、鎌倉防衛に必要な役職として北条時政の時代から重要視されてきました。さらに、鎌倉公方基氏に国清の妹(清渓尼)を嫁がせています。
基氏の義兄・関東執事(のちの関東管領)・武蔵守護となった国清の関東での権勢は強大となり、鎌倉府の主導権を掌握します。また、1358年(延文三年)に新田義興を武蔵矢ノ口で謀殺して、関東の南朝勢力に壊滅的打撃を与えることに成功しました。
1359年(延文四年)、国清は将軍義詮の要請を受けて、南朝攻撃のために関東勢を率いて上洛し、細川清氏とともに河内・紀伊での南朝軍掃討作戦に従事します。
そして、細川清氏や他の守護と語らって政敵の仁木義長の追い落としに成功したものの、義長が南朝に下ったことで、逆に南朝の攻撃をゆるすことになり、その非難は国清に向かいました。
国清の没落
『太平記』には、「自ら敵の種をばらまく畠山はバカ(超訳)『御敵ノ種ヲ薪置畠山打返スベキ世トハ知ズヤ、何程ノ豆ヲ蒔テカ畠山日本国ヲバ味噌ニスラナラン』という落首を書いた高札が立ち、湯屋で女子供の噂にのぼったりしたので、面目を失って夜京都を逃げ出した」と記しています。
実際は、国清に率いられて攻め上がった東国の軍勢が長陣に疲れて、勝手に帰国していったようです。
そもそも、今回の京都への出陣は、関東の武士たちは乗り気ではなく、基氏も反対していたといわれています。それどころか、義詮から国清に応援を要請したのではなくて、逆に国清から義詮に応援を提議したと言われたりもしています。
いずれにせよ、関東の武士たちは嫌々上洛軍に参加し、長陣に疲れて帰っていったのでした。
さて、鎌倉に戻った国清は、勝手に帰国した武士たちの所領を没収するなど厳しい処罰を与えました。その結果、所領を没収された武士たちの不満が高まり、強圧的な政治に反感を持つ者も増加してきます。
さらに、国清の上洛中に、鎌倉府では旧直義派の岩松直国らが復帰していました。彼らは、直義の死は国清の裏切りにあるとして深く恨んでいたようで、国清が関東執事の地位についているのを我慢できずにいました。
1361年(康安元年)11月に多くの関東の武士が結束して、国清弾劾を基氏に要求します。基氏は、彼らの要求を拒否しては関東の経営は困難になると考え、国清に鎌倉退却を命じます。
そもそも、基氏が国清を嫌っていました。基氏も直義に深く傾倒していて、直義の右腕だった上杉憲顕の鎌倉府・関東管領執事就任を強く望んでいたのです。
ただし、正当な理由なしに国清を罷免すれば、将軍義詮が謀反の疑いを基氏に抱く可能性があります。国清が南朝攻撃に失敗し、義詮の信頼を失ったことは「渡りに船」だったわけです。
1361年(康安元年)11月、鎌倉を追われた畠山国清は弟義深・義煕らとともに彼の分国伊豆の三津・神益・修善寺などに城を構えて基氏に反抗しました。基氏の討伐軍との間に戦いが続けられて、翌1362年(貞治元年)に畠山兄弟は降伏します。
しかし、基氏による処刑をおそれて逃亡し、国清は流浪して南朝に下ろうとしましたが、楠木正儀に反対されて実現せず、奈良のあたりで野垂れ死にしたと言われています。
国清は、「状況に応じて有利な勢力に組する」というこの時代の武将として当たり前のことをしただけですが、その最後はあまりに無様なものだったようです。
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