1358年(延文三年)4月30日、足利尊氏が京都で没し、後を継いだ義詮は同年12月、征夷大将軍となり名実ともに武家の棟梁となりました。いよいよ義詮の時代です。
とはいえ、義詮には宿老級の大名が取り囲んでおり、いかにして将軍権力を高めるかという課題が義詮に突き付けられます。
義詮の南朝攻め
晩年の尊氏は、南朝との融和政策を模索していましたが、義詮が棟梁になるとこれを否定。南朝に乾坤一擲の大打撃を加えるべく、軍勢を整えます。
義詮は、関東執事の畠山国清に大軍をもって上洛することを命令。翌1359年(延文四年)11月には、鎌倉の義詮の弟基氏の号令によって号令を受けた東国の軍勢が畠山国清に率いられて上洛します。
※基氏の反対を押し切って、畠山義清が将軍義詮に東国軍勢の上洛を提案したという話もあります。
畠山国清は、観応1351年(観応二年)に勃発した観応の擾乱で、当初は直義についていましたが、のちに尊氏に属して鎌倉に入り、そのまま基氏を補佐して関東執事として関東を統括していました。
12月に幕府軍は京都を出発。義詮勢は、摂津尼崎に進み、ここで形成を見守ることになります。関東の軍勢を率いた畠山国清勢は、河内に入り四条畷で南朝軍と交戦して越年し、翌1360年(延文五年)3月には河内金剛寺に乱入してこれを焼き払い、さらに紀伊に進んで南朝方の城を次々と落としていきました。
一方、幕府執事の細川清氏勢は、河内や和泉の南朝方の城を攻め、後村上天皇の行宮河内観心寺に近い南朝の拠点赤坂城を陥落させています。
このように、南朝攻撃は順調に進んでいるように見えましたが、出陣してから半年の月日が過ぎており、幕府軍のこれ以上の長陣は不可能な状況になっていました。
5月27日、義詮は尼崎から帰京し、畠山国清や細川清氏の軍勢も帰京の途につきます。
仁木義長の没落
合戦を主導したのは畠山国清と細川清氏ですが、実は仁木義長も出陣していました。義長は、清氏の前任の幕府執事仁木頼章の弟で、つねに尊氏に従ってきた幕府の功労者です。
ところが、今回の合戦では西宮に陣取ったまま淀川を渡って南朝軍を攻撃することもなく静観を決め込み、義詮とともに帰京の途についていたのでした。
7月6日、細川清氏が南朝方を討伐すると称して京都を出発します。しかし、この出陣の真の目的は仁木義長を討つための作戦でした。このとき、義長は京都の留守を預かり義詮を守っていました。
清氏が自分を狙っていることを知った義長は、義詮をさらって抗戦する構えをみせましたが、佐々木道誉の策略によって義詮は脱出。不利を悟った義長は、同月18日に自邸を焼き払って京都を脱出し、自身の守護国伊勢に逃亡しました。
義長、南朝に下る
義長は兄頼章とともに常に尊氏派としてそばに仕えて、幕府の要職を占めてきました。特に頼章が将軍家執事になった1351年(観応二年)10月以降、義長の勢力も増大し傍若無人な振る舞いも多く、他の有力守護との間に摩擦を生じることが多かったようです。
たとえば、1355年(文和四年)4月、義長が清氏の土地があった西洞院三条の敷地に無断で屋敷を建てようとしたため武力衝突寸前まで緊張が高まり、尊氏が清氏のもとに、義詮が義長のもとに赴いて両者をなだめています。また、1358年(延文三年)7月には、尊氏が没して百日もたたないうちに、義長と土岐頼康が会合のでちょっとした口論がきっかけで、これまた武力衝突寸前まで発展しそうになっています。
義長は伊勢長野城で幕府の追討軍に抵抗しましたが、劣勢を打開すべく1361年(康安元年)2月南朝に下りました。仁木氏が守護に任じられた伊勢は本来北畠氏の拠点で、長年にわたって義長は北畠勢力を攻撃し制圧することで、幕府に貢献してきましたが、ここにきてその北畠と手を結ぶことになったのです。
南北朝時代は、特に幕府方の有力武将は、自身が不利になるとさっと南朝と手を結んで幕府に抵抗するので、正直わけがわからなくなりますね。
その後
1366年(貞治5年)、貞治の政変で当時幕政を主導していた管領斯波氏が失脚すると、義長は幕府に許されて帰参します。因縁の仲だった美濃・尾張の守護土岐氏との長年の抗争に消耗して、従う者もほとんどいなかったと伝えられています。
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