南都北嶺・僧兵の強訴について解説~日本中世は強訴の時代

院政の時代
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室町幕府を悩ました南都北嶺といわれる寺社たちの強訴。そもそも、強訴とは何でしょうか?強訴の目的や成立について見ていきましょう。

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延暦寺と興福寺

寺院内部における武装集団の出現は10世紀後半の延暦寺。そして、白河親政から院政期にかけて、寺社における武力・強訴が大きな問題となり始めます。強訴をおこなった寺社勢力は「南都北嶺」と称され、南都は興福寺・東大寺など、北嶺は比叡山延暦寺を指します。実際、強訴を行った寺社はほぼ延暦寺・興福寺に限られているのが特徴で、密教系の東寺や仁和寺などには悪僧による強訴の例はほとんどありません。

興福寺や延暦寺の有する武装した僧侶のことを「悪僧」(江戸時代以降、「僧兵」と呼ぶようになりました)といいますが、日本の中世の幕開けである院政期において、彼らの強訴は頻繁におこるようになりました。

白河法皇の「三不如意」。「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞ朕が心に随わぬもの」と嘆いた話は有名ですが、この「山法師」とは延暦寺の僧兵のことです。

延暦寺の僧兵

僧兵による強訴は摂関期に始まりました。970年(天禄元年)に延暦寺内の綱紀粛正のために天台座主良源が制定した『二十六箇条起請』には、当時延暦寺内に「裏頭妨法の者」が横行していたことが記されています。裏頭妨法とは、頭を袈裟などで包み隠し、仏法を妨げる者という意味です。弁慶のような格好をしていたわけです。

彼らは夕刻時なると念仏堂などの修行の場にきては「真面目な修行僧」の邪魔をし、制する者には暴言を吐き、武器をかざして暴行に及んだそうです。僧侶が武装するという事態が寺院の中で見られるようになったわけですが、それは同時に僧侶・寺院同士の抗争や強訴が行われるようになったことを意味しました。

天台座主良源は、摂関家と結んで延暦寺・天台宗の地位を向上させ、延暦寺中興の祖といわれる一方で、天台宗内の主要な地位を円仁系(慈覚門徒)の人脈で固めました。それが、円珍系(智証門徒)の反発を招き、園城寺(三井寺)との長く続く抗争の原因をつくることになります。摂関期における延暦寺をはじめとする寺院の世俗化が僧兵出現の背景にあったのです。

興福寺の僧兵

一方の興福寺も、藤原氏の氏寺として氏神春日大社と一体化していました。ところが、氏寺といいながら藤原氏の有力者との人的関係は希薄で、全国の寺院を統括する僧綱(そうごう)に任命される僧侶の数は、天台宗系や真言宗系の寺院よりも少なく、興福寺が摂関政治のもとで優遇されていたわけではないようです。

しかし、院政期に摂関家が勢力を失うと、逆に摂関家と興福寺の接近をもたらすことになります。

神輿・御神木

強訴といえば、僧兵が神輿・御神木を擁して入京するイメージがありますが、初期はそれらを持ち出していませんでした。持ち出すようになったのは、1092年(寛治六年)の延暦寺による加賀守藤原為房に対する強訴の時で、日吉神社の神輿を先頭に立てて訴えました。

さらに、翌年の興福寺の強訴では、初めて春日大社の神木を押し立てて入京。こうして、寺院と関係する神社の御神体を擁した強訴が見られるようになったのです。彼らは、神威によって強訴を正当化し、自己の主張の実現をはかったのでした。

そして、1095年(嘉保二年)の延暦寺の強訴に際して、武力で神輿を撃退した関白師通が4年後に急死すると、神輿・御神体を押し立てた強訴に対して、貴族たちは恐れを抱くようになり、強訴は増加していくことになります。

 

強訴の目的

強訴の要求は、延暦寺の場合は各地の荘園を拡大していったこともあって、荘園が主な原因ですが、興福寺の場合は人事に関わる要求が多いようです。また、地方で起こった事件が、寺社の本末関係を通じて朝廷に訴えることに発展した例もありました。

また、寺社による強訴は、荘園支配の拡大などを背景とする寺社内部での勢力争いに端を発するような場合でも、その背後には院による人事介入があったり、対抗する勢力の一方が院と結びついたりして、院政期特有の問題を背景に持っている場合が多かったようです。

強訴は、延暦寺・興福寺のような大寺院の既得権益の侵害に対して、これをやめさせたり、元通りに復旧させることが目的で、中央政府における政治問題や政治事件・皇位継承問題などには介入しませんでした。

また、僧兵と呼ばれた僧侶・神人たちは、朝廷に対して武力で攻撃を加えることはなく、あくまで神輿や御神木などの御神体によって圧力を加えただけ、というのが強訴の姿です。

院・朝廷の対応

強訴が、政治に口出しするわけでもなく、神輿や御神木を担いで自分たちの権益の保護を訴えるだけだったので、僧兵の強訴から院・朝廷を守るべく動員された軍事貴族(=武士)は、僧侶らと合戦に及ぶことは禁じられていました

たとえば、1118年(元永元年)の延暦寺の僧兵による強訴では、白河上皇は1000人におよぶ北面の武士を派遣しましたが、僧兵に矢を射ることを禁じ、院・朝廷に乱入する者があれば捕らえるように指示しています。

北面の武士に期待されたのは防御の役割で、強訴の勢力を攻撃するためではありませんでした。

強訴の回数

最後に、強訴の回数について見てみましょう。

981(天元四年)から1549年(天文十八年)までの約600年間の間に約240回行われました。

院政以前の90年間に4回、院政時代の110年間に60数回、鎌倉時代の150年間に約100回、南北朝時代の約60年間に約40回、それ以後の室町時代の約150年間に30数回行われました。

強訴は、日本の中世を象徴する寺社権門勢力の姿なのです。

 

参考文献

北山茂夫『日本の歴史4~平安京』中公文庫。

土田直鎮『日本の歴史5~王朝の貴族』中公文庫。

木村茂光『日本中世の歴史1~中世社会の成り立ち』吉川弘文館。

福島正樹『日本中世の歴史2~院政と武士の登場』吉川弘文館。

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