1335年(建武二年)7月、得宗・北条高時の遺児北条時行とその残党が信濃で挙兵し、足利尊氏の弟直義の軍勢を撃破して鎌倉を攻略するという「中先代の乱」が勃発します。
中先代の乱~足利尊氏・直義兄弟と北条氏残党の鎌倉をめぐる戦い
尊氏の要求
その時、尊氏は京都にいましたが、北条時行から鎌倉を奪還するために軍勢を率いて鎌倉に下向する許可を後醍醐天皇に求めました。
この時、尊氏は「惣追捕使」と「征夷大将軍」の任官を後醍醐天皇に要求します。
当然、この要求は後醍醐天皇によって拒否されました。
なぜなら、この2つの役職は武家政権を成立させるのに必要かつ十分な条件だったからです。
その先例は源頼朝。
頼朝が「惣追捕使」と「征夷大将軍」の2つの役職を任官したことで、鎌倉幕府という武家政権が名実ともに成立したのでした。
足利尊氏は頼朝の先例に従おうとし、後醍醐天皇は認めなかったということです。
惣追捕使
1190年、源頼朝は日本六十六国惣追捕使、つまり全国の惣追捕使(そうついぶし)に任命されます。
惣追捕使とは何ぞやという話ですが「守護」のことです。それでは、惣追捕使は守護のことか?と言えば、そうでもあり、そうでもありません。
日本史で「1185年に守護・地頭が全国に設置された」と教わりますが、全国におかれた守護は最初は「〇〇国惣追捕使」と呼ばれていました。
たとえば、相模国惣追捕使とか伊豆国惣追捕使です。これがのちに、相模国守護・伊豆国守護とよばれるようになります。
ということは、惣追捕使=守護なのです。
それでは、惣追捕使は頼朝が独自に生み出した制度か?と言われればそうではなく、平安の昔に朝廷が全国の国々に警察・軍事の役割を担わせるために設置したものです。
つまり、頼朝は、朝廷の惣追捕使制度をを利用して、全国(主に東国)支配を行っていくことになります。
なぜ、頼朝が惣追捕使の役職を求めたのでしょうか?
結論から言いますと、自分が支配する所領・領域の正当性を主張するためです。
当初は、源義経・源行家という、頼朝にとっては「空気の読めないどうしようもない奴」を捕らえるためですが・・・。
頼朝の東国政権は、もともとは京都に逆らう反乱軍から出発しました。当時は、平氏政権ですから、打倒平家を掲げる頼朝勢は反乱軍なわけです。
反乱軍がいつの間にか東国を支配したわけですが、いつまでも反乱軍なわけにいきません。何かしら自分たちの正当性を主張するようになりした。
ちょっと小難しい話をすると、頼朝や尊氏の時代、建前上は日本は天皇のものです。
現代は、国民主権・象徴天皇制ですから、そういうことはないのですけれども、当時は建前といえども天皇のものです。
もちろん、天皇一人で全てを見るわけにはいきませんから、誰かに統治を委任します。当然、日本の統治を委任する権限は天皇にしかありません。
ということは、自分が支配する領域(頼朝の場合は東国)の正当性を主張する一番の方法は「天皇様から預かった」と言うことです。
惣追捕使には、全国の警察・軍事に関する領域支配の権限・機能がありましたから、天皇から全国惣追捕使の役職を与えられた頼朝は、警察・軍事という側面から全国支配の正当性を主張することができたのです。
征夷大将軍
一昔前までは、1192年の征夷大将軍就任によって鎌倉幕府が成立したと習ったものですが、実は征夷大将軍は惣追捕使(総守護)に比べてそれほど重要な役職ではありません。
征夷大将軍は、坂上田村麻呂のような平安時代は別として、頼朝以来の慣例に従えば、武家の棟梁を象徴する官職です。
惣追捕使と征夷大将軍の性格は大きく異なります。
惣追捕使は警察・軍事権を通した領域的な支配権であるのに対して、征夷大将軍は対人的・主従的な支配権といえます。
主従的支配権といっても、征夷大将軍に絶対従わなければならないとか、征夷大将軍だから人々を服従させることができるというものではないのです。
つまり、惣追捕使は、天皇から領域支配の委譲を受けた強力な権限であるため力で従わせることが可能ですが、征夷大将軍にはそのような力はありません。
鎌倉時代後期、皇族将軍で7代将軍惟康親王、8代将軍久明親王、最後の将軍守邦親王は御家人と非常に希薄な主従関係だっため、征夷大将軍であっても何の力もなかったのがよい例です。
極論ですが、武家の棟梁になるには、全国の武士と各々主従関係を結べば事足りるというわけです。
しかし、頼朝は私的な主従関係を幕府機関を通した公的な主従関係とするために、征夷大将軍の称号を手に入れます。近年の研究によれば、「大将軍」という名のつく官職だったら何でも良かったといわれています。「征夷」にはこだわっていなかったようです。
尊氏の時代になると、鎌倉幕府150年の歴史を通して、征夷大将軍という称号に伝統的な権威の力が宿るようになっています。
全国の武士によびかけて、服属をもとめるのに、征夷大将軍は極めて有効だったのです。
もちろん、その土台となる主従関係を構築する必要があることは言うまでもありません。尊氏は、足利氏という当時ナンバー1の家格と、強力な軍事力、そして旧御家人の支持がありましたから「征夷大将軍」の称号が有効となるのです。
むすび
源頼朝が「惣追捕使」と「征夷大将軍」に任官したのには、反乱軍から出発した鎌倉幕府が、今や天皇から移譲をうけた正当な政権であり、自身は武家の棟梁であることを知らしめるためでした。
尊氏は、頼朝の先例に従って「惣追捕使」と「征夷大将軍」に任官することで、建武政権から離脱した後の幕府再興の正当性を主張しようとしたのでした。
コメント