南北朝時代序盤は、北陸や東国で主に主導権が争われましたが、結果は北朝有利に進みます。
しかし、その北朝も新たな内紛と分裂を引き起こし、これが南北朝時代を複雑なものにしてしまいます。
その内紛と分裂を引き起こす北朝の2つの勢力の代表が足利直義と高師直でした。
今回は、尊氏の弟直義の人柄について見てみましょう。
誠実な直義
足利直義は、尊氏とは2歳違いの弟で、母親は尊氏と同じ上杉清子です。兄尊氏とは性格が正反対の人物だったと言われています。
尊氏が清水寺に願文を奉納して、弟直義に政務を譲ろうとしたとき、直義は再三にわたって固辞しましたが、尊氏の強い要請に負けて引き受けたといわれます。しかし、いったん引き受けたあとは、幕政に専念しました。
尊氏と直義の性格が正反対であるエピソードをご紹介しましょう。
尊氏が猿楽(日本の伝統芸能「能」の原点と言われています)の観劇を好んだのに対して、直義は「政務を妨げる」という理由で好まなかったと言われています。
また、尊氏が「国を治める職にあるからには、重々しく振舞わなければならない」と訓戒を与えたところ、「私は自分の身を軽く振舞って、諸侍などに近づき、人々にも慕われ、朝廷を守護していきたい」と答えたと言われています。
尊氏が八朔(はっさく:8月1日に人に品物を贈る風習で、関東で生まれ京都に広がった)で贈られてきた物を惜しげもなく人々に与えたのに対して、直義は八朔の風習そのものを嫌って贈り物を受け取りませんでした。
このように、直義は実直で、政治に熱心だったことから「誠実で偽ることのない」人物というのが当時の評判でした。
直義は禅問答を好むだけあって、論理的な思考の持ち主で、自制心に富み、誠実な人物だっただけでなく、容易に妥協せず、筋を通す人物だったようです。
ちなみに、鎌倉・室町時代、幕府の保護を受けて禅宗が発展しますが、禅宗は難解ということもあり、意外と一般武士には広まっていません。
直義は、大らかでその時の雰囲気で物事を決める傾向の強かった尊氏の性格と大きく違っていたのです。
尊氏の性格について、夢窓疎石は以下のように述べています。
「三つの大きな徳をもっておられる。第一に、心が強く、合戦で命の危険にあうのも度々だったが、その顔には笑みを含んで、全く死を恐れる様子がない。第二に、生まれつき慈悲深く、他人を恨むということを知らず、多くの仇敵すら許し、しかも彼らに我が子のように接する。第三に、心が広く、物惜しみする様子がなく、金銀をまるで土か石のように考え、武具や馬などを人々に下げ渡すときも、与える人を特に確認するでもなく、手に触れるに任せて与えてしまう。」
直義の政治思想
直義は尊氏から政務を譲られて、二頭体制の一翼を担っていましたが、政治熱心だっただけでなく、一定の政治理念をもっていました。それは鎌倉幕府の執権政治への回帰でした。
鎌倉幕府は、3つに大きく時代区分がなされていて、頼朝独裁期、執権政治期、得宗専制期に分けられます。
執権政治期は、北条義時・泰時の頃と言われていて、合議制によって幕府を運営していた時代です。
時頼以降になると、「得宗」と呼ばれる北条氏家督が幕府を牛耳っていきます。
直義の管轄した幕府機関の中で、もっとも規模が大きく、重要な機関は、所領関係の訴訟を担当する引付方という機関です。
その人員構成は、頭人(長官)には足利一門、寄人(合議官)と奉行(審理官)には鎌倉幕府の司法官僚、あるいはその一族子孫を登用しました。
このように、引付方において「鎌倉幕府の官僚と足利一門」を組み合わせる方式が取られましたが、これは建武三年の「室津軍議」で打ち出された地方支配体制に近い方式でした。
室町幕府の引付方は、基本的に鎌倉幕府の引付の構成と同じですが、足利一門以外の武士の比重の大きくしているところが特徴的と言えます。
これは『建武式目』が、「義時・泰時父子の行状にならえ」と謳っており、鎌倉幕府が滅亡したのは北条氏の独占と専横が原因と考えられていたからです。
北条氏によって守護職を取り上げられた豪族に対して、その守護職を返付したことも同様の考えでしょう(安芸の武田氏、尾張の中条氏)。
直義は、執権政治の復活を目指しましたが、政治思想は儒教の影響を大きく受けていたとされています。
北朝では、1338年(建武五年)に「暦応」と改元しましたが、その際、朝廷は直義に意見を求めました。結果的には、直義の意見は通らなかったのですが、新元号には「文」の字が望ましい、文武あい並ぶべきと答えています。
つまり、「武」をもって天下を取った後は、「文」をもって治めなければならないという考えです。これは儒教で説かれる王道・覇道の論で、すなわち覇道は「武」をもって達成できるが、王道を行うには「文」をもってしか成し得ないということです。
直義が「文」を好んでいた影響は人事にもあらわれています。
儒学を家業として王朝に仕えた治部卿日野有範という人物を、禅律頭人に任用し、幕府政治に参加させたのでした。禅律頭人は、直義の管轄する裁判機関の一つで、禅宗・律宗寺院関係の訴訟を扱う禅律方という法廷の長官のことです。
日野有範は父藤範にしたがって、鎌倉幕府末期に鎌倉に下って、将軍にも仕えた経歴があることから、日野家は武士の間では学問の大家として早くから知られていました。
父の藤範が建武式目の答申者に選ばれたのもそういう関係からで、このときすでに足利直義と日野家の結びつきが出来ていたのでした。直義と有範との関係は、「儒学」という思想・学問を通してつながっていたのです。
尊氏管轄の幕府機関が、足利家家政制度の仕組みを導入し、執事である高師直・師泰を登用した人事になっているのに対して、直義管轄の幕府機関は、直義の政治思想を反映した人事となっていることも、尊氏と直義の違いを見ることができます。
むすび
直義は、禅や儒学を好み、潔癖ですが誠実な人柄で、秩序を大事にしていました。
一方、直義と対立することになる高師直は「バサラ大名」と言われ、古い権威を徹底的に否定し、秩序の破壊者でした。
北朝は、性格や考えの異なる二人によって分裂するのでした。
参考文献
佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。
小林一岳『日本中世の歴史4~元寇と南北朝の動乱』吉川弘文館。
コメント