北条泰時

鎌倉時代

泰時・時房の死と4代執権の座を巡る北条氏の内紛

北条泰時は、祖父時政・父義時のようにライバル御家人を滅ぼすことで北条氏の地位をあげるのではなく、御家人・官僚から協力を引き出すことで地位を高めていった執権といえます。 泰時は御家人や官僚の協力体制を整えて評定衆を設置し...
鎌倉時代

北条泰時、皇位継承に介入~後嵯峨天皇の即位の背景と経緯

北条氏惣領(棟梁・リーダー)としての立場が弱かった北条泰時は、評定衆という合議体制を敷くことで、自身の立場の強化をはかっていきました。 そんな泰時ですが、朝廷・寺社への姿勢は強硬的であったといえます。先々代の時政、先代...
北条泰時の時代

泰時の執権政治~「評定衆と連署」の設置にいたる経緯と背景を解説

1224年(元仁元年)7月、伊賀方(いがのかた)らを中心とする伊賀氏の画策は失敗し、尼将軍北条政子・幕府宿老の後押しを得て、北条泰時は執権に就くことになります。 とはいえ、執権になった泰時の北条氏内の立場は、まだまだ弱いもので...
鎌倉時代

鎌倉時代の女性は強かった?伊賀氏の変に見る武家の相続

「伊賀氏の変」を制して、北条泰時は3代執権に就任します。 泰時の執権就任の裏で激しいバトルを演じたのが、北条政子と伊賀方です。 北条政子は言うまでもなく源頼朝の妻で、2代執権北条義時の姉です。伊賀方は義時の後妻。 泰時からすれば、政子...
鎌倉時代

伊賀氏の変と北条泰時・三代執権の座を巡る北条氏の内紛劇を解説

1224年(元仁元年)6月13日、北条義時は死去しました。 「吾妻鏡」によると、日ごろから脚気(かっけ: ビタミン不足で神経障害が発生し、最悪心不全にいたる場合も)があったところに、6月12日に急性胃腸炎を発して、翌日に没するという急死で...
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