平忠常の乱と源頼信~河内源氏の東国進出のきっかけ

院政の時代
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鎌倉幕府の創始者源頼朝は、清和源氏の一派河内源氏の出身ですが、頼朝やその父義朝が河内に勢力基盤をもっていた様子はありません。むしろ、その勢力基盤は東国(南関東)にありました。

それでは、この「河内」に基盤を置いた源氏が、いつ、どのようにして東国に基盤を築いていったのでしょうか。

今回は、鎌倉幕府が成立する大前提となる河内源氏の東国進出について見ていきましょう。

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河内源氏

河内源氏の東国進出の出発点は源頼信にあります。頼信は、承平・天慶の乱で平将門を訴え、藤原純友に対する追捕使となった清和源氏祖・源経基の孫で、藤原北家による最後の他氏排斥事件「安和の変」で、左大臣源高明の謀叛を密告した満仲の三男にあたります。

頼信が拠点を置いたのは河内国古市郡坪井(大阪府羽曳野市)でした。このことから、頼信系統は河内源氏と呼ばれることになります。

ちなみに、父満仲は摂津国多田に拠点を置き、その長子頼光がそれを継承したことから摂津源氏と呼ばれ、二男頼親は大和に拠点を置いたことから大和源氏と呼ばれました。

河内源氏系図

彼らが、京都周辺の畿内に拠点を置いたのは、軍事力や経済力を背景に朝廷で活動することを意図していたからです。

しかし、頼信は兄頼光・頼親と違っていて、兄たちが京武者(都の武者)として活動したのに対して、頼信は積極的に東国と関係を持とうとした点にあります。

河内源氏の東国基盤

頼信は、987年(永延元年)2月に左衛門尉に補任され、999年(長保元年)までに上野介、1012年(長和元年)以前と同五年以前の2期にわたって常陸介に任命されました。任命された背景には、祖父経基や父満仲、叔父満政らが武蔵・常陸の国司を務め、その際に東国に基盤を作り上げていたからと考えられています。

また、頼信の母は藤原保昌(和泉式部の夫)の妹ですが、母方の血縁も大きな影響を与えたようです。

それは、保昌の祖父元方、曽祖父菅根の系譜は東国に基盤をもつ軍事貴族(治安・軍事担当の貴族)の家系で、元方は将門の乱の征討大将軍にも選ばれています。頼信の母方が東国に基盤をもっていたことも、頼信の東国進出の動機になったと言われています。

平忠常の乱

京都周辺に拠点を置いていた河内源氏が、直接東国との結びつきを強めるきっかけとなった事件が「平忠常の乱」です。

乱の発生

事の起こりは1028年(万寿五年)5月頃のこと。房総半島一帯に勢力を拡大した上総権介平忠常(桓武平氏・平良文の孫)が安房国守惟忠(姓不詳)の館を襲撃し、また忠常の従者が上総国において上総介(上総は親王が国守になる親王任国なので、上総介が受領となります)県犬養為政の館を占拠する事件が発生しました。なぜ、この事件が起こったのかは定かではありませんが、上総国守(上総介)の交代において何らかの不満があったのではないか?と言われています。

追討使平直方

6月5日、朝廷は平忠常とその子常昌らを追討する宣旨を出し、21日には追討使の人選にとりかかります。候補に上がったのは、源頼信・平正輔・平直方の三人の武者と、法律家の中原成通でした。公卿たちが推挙したのは源頼信ですが、後一条天皇は検非違使平直方を追討使に、明法官人中原成通を追討使次官に任命しました。

都で追討使任命が進められている頃、忠常は上総を勢力下に入れます。上総国守の妻子は都へ脱出をはかるも、忠常に同調した在地勢力の援助を得られず、右往左往するばかりだったと言われています。忠常の乱が、国司の支配に対する在地勢力の反発を背景とした幅広い勢力基盤によって行われたと考えられている理由です。

忠常は、国司に対して反乱を起こしていますが、朝廷に対しての叛意はなかったようで、7月下旬から8月にかけて使者を上京させて内大臣藤原教通らに追討の停止を申し入れています。

結局、使者は捕らえられ、8月5日に追討使平直方・中原成通は200余人の兵を率いて東国へ下向しました。

乱が勃発した長元年間(1028年~1036年)の関東の国司の補任状況は、上総介に直方の父維時、武蔵守に平公雅の孫致方、甲斐守に源頼信、安房守に平維衡の子正輔とし、追討使直方の支援体制を整えます。追討使平直方、直方の父上総介平維時、安房守に正輔は「貞盛流平氏」の出身で、彼らと敵対する忠常の「良文流平氏」に対抗させて乱の鎮圧を意図したと考えられています。

1029年(長元二年)2月に東海道・東山道・北陸道諸国に対して、直方に協力して忠常を追討することを命じた追討官符が出されました。

しかし、平直方・中原成通による追討は初めから不調で、直方から朝廷に戦況報告がなされた形跡もなく、合戦らしい合戦もなかったようです。ただ時間を費やしてばかりだったことから、朝廷は追討使更迭を検討し始めました。

そのような中、中原成通は母の病気を理由に帰京を望み、さらに直方との不和が表面化したことから、12月に追討使を解任されます。

1030年(長元三年)5月、直方からようやく忠常の動静が朝廷にもたらされます。忠常が籠もる「いしみ山」に立てこもる軍勢が減ってきたというもので、さらに忠常が出家して常安と名乗っているというものでした。6月には忠常が前鎮守府将軍藤原兼光(藤原秀郷の孫)を介して直方に贈り物をおくってきたことなどを知らせています。忠常が講和を求めていることを意味していますが、朝廷は無視。

戦らしい戦がおこることはありませんでしたが、長陣によって上総国だけでなく関東諸国はかなり荒廃したようです。この荒廃は戦乱によってもたらされたのではなく、追討使や諸国兵士によって激しい兵粮米徴収が行われたからでした。

追討使源頼信

事態を重く見た朝廷は、7月に追討使平直方を更迭します。そして、9月に甲斐守源頼信が追討使に任命され、あらためて関東諸国に忠常追討の官符が下されました。

頼信は、忠常の子法師をともなって甲斐へ下向します。関東諸国が疲弊している状況下で、これ以上の負担をかけずに忠常を追討することが頼信に課せられた使命でした。1031年(長元四年)1月に頼信は従四位下に叙されていますが、頼信に対する朝廷の期待の大きさをうかがい知ることができます。

頼信は忠常の子法師を使者に立てて忠常を説得します。そして、4月に忠常は子常昌を伴って甲斐国にいた頼信のもとを訪れて降伏しました。

頼信が戦わずして忠常を降伏させた大きな要因は、田地の荒廃と人々の疲弊が極限を極め、これ以上の戦闘は不可能という状況にあったからです。さらに、忠常が頼信の従者だったことがあげられます。

平忠常の乱の20年ほど前、下総国の兵平忠常は強大な勢力をもって上総・下総を支配し、官物を納めず、常陸国司の命にも従わなかった。怒った頼信は忠常に対して攻撃することとし、忠常とは先祖以来の敵である常陸の豪族平惟基の軍勢3000騎、頼信の率いる国司軍(「館の者共」「国の兵共」)2000騎の軍勢で下総に向かった。これに対して、忠常は衣河河口付近の舟をすべて隠し、渡河の妨害をはかった。ところが、「家の伝え」としてこの地の浅瀬の存在を承知していた頼信は、その日のうちに忠常の館に到着し、忠常を降伏させた。

『今昔物語集』

敗れた忠常は、頼信に名簿(みょうぶ)を提出したようです。この名簿を差し出す行為は、従者になる手続きとされています。すなわち、乱が起こった時点で、すでに忠常は頼信の家来だったことになり、頼信が戦わずして忠常を降伏させたのもも道理なわけです。

忠常の死と子孫

降伏した忠常は、頼信に伴われて上洛する途中で重病となり、6月6日に美濃で没しました。そして、首ははねられ、頼信は16日に京都に入ります。

忠常の子供たちはまだ降伏していませんでしたが、朝廷では議論の末、反乱の首領が降伏した以上、かれらを追討する必要はないという決定を行います。さらに、降伏した者として首は従者に返され、京都でさらされることはありませんでした。

この忠常の子供たちが生き残ったことによって、頼信の子孫である源頼朝を生かすことになります。忠常の子孫は、千葉氏・上総氏を名乗り、後に源頼朝の御家人として活躍するのです。

河内源氏と平直方

平忠常の乱を平定した源頼信は、その武名を上げるとともに、関東の豪族と結びつきを強めました。

そのきっかけとなったのは、忠常の乱から間もない頃に、頼信の嫡男頼義が貞盛流平氏で、平忠常の乱で追討使に任じられるも失敗して罷免された平直方に婿として迎えられたことです。

頼義の嫡男義家、次男義綱、三男義光は平直方の娘と頼義の間に生まれた子供たちです。これによって、頼義は貞盛流平氏の伝えてきた所領や鎌倉の屋敷、そして相模における伝統的権威を直方から譲り与えられることになります。

のちに起こる前九年の役・後三年の役で、頼義や義家に相模の武士が側近として従ったのは、頼信との結びつきがあったからです。

定かではありませんが、執権北条氏は直方の子孫と称しているようです。おそらく、頼朝を婿としていることから、直方と頼義の関係をなぞらえて北条氏の権威づけをおこなったのではないか?と考えられています。

北条時政系図

 

頼信の従者との結びつきは、頼朝と御家人の関係とは大きく異なります。頼朝の場合は、治承・寿永の乱という全国規模の動乱の中で形成されたもので、その主従関係は所領を媒介としています。頼信の場合は、頼信の武名対する崇拝と頼信の庇護に対する期待によって成り立っていたのです。

 

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参考文献

北山茂夫『日本の歴史4~平安京』中公文庫。

土田直鎮『日本の歴史5~王朝の貴族』中公文庫。

木村茂光『日本中世の歴史1~中世社会の成り立ち』吉川弘文館。

福島正樹『日本中世の歴史2~院政と武士の登場』吉川弘文館。

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