得宗北条氏の被官(家来)を御内人(みうちにん)とよびます。その御内人の筆頭のことを内管領(ないかんれい)とよびます。
この内管領は役職名ではなくて、得宗家の執事という意味合い程度で、室町幕府の管領(かんれい)と異なります。室町幕府の管領も足利将軍家の執事からきているので、由来は似ていますけれどもね。
鎌倉時代後半になると、北条得宗家の力が増していきます。同時に内管領もその力を増します。
内管領は一御家人の北条氏の家来にしかすぎません。執権北条氏も御家人の一つですから、その家来の内管領は足利氏や安達氏といった御家人よりも身分が低かったのです。
ところが、北条氏が他の御家人より抜き出た立場になると、その家来である内管領は他の御家人を圧倒する力を持つようになりました。
内管領の地位を特に高めたのが平頼綱(たいらのよりつな)です。
平頼綱
内管領平頼綱が圧倒的な権勢を振るうようになるのは、北条貞時の頃です。頼綱は貞時の乳母父(乳母の夫)でした。
鎌倉時代は、母方の一族同様に、乳母の一族も権力を握る傾向にありました。
比企氏の乱
貞時の母は、幕府の宿老ともいえる安達泰盛の娘です。ですから、比企氏の変のように(母方の北条氏VS乳母の比企氏)なっていました。
つまり、安達泰盛vs平頼綱となっていたのです。さらに、安達泰盛は御家人の筆頭で、平頼綱は御内人の筆頭でもありました。
さて、その平頼綱。
1261年頃(弘長元年)には侍所の別当(長官)に次ぐ所司(次官)に就いたとされています。
(侍所所司のトップは「別当」と呼ばれ北条氏が執権と兼務していました。別当の次官所司は御家人から選ばれていたのですが、1213年(建暦五年)の和田合戦のあと、北条氏の御内人である金窪行親が就任したことで、所司は御内人が占めていくことになります)
侍所所司に就いてから10年後の1271年(文永八年)頃には得宗家の執事、内管領に昇進しています。
平頼綱が鎌倉で幕府非難や他宗非難をしていた日蓮を捕らえて、佐渡に流罪とした逸話はこの頃です。
平頼綱と安達泰盛は、時宗の時代から激しく対立していましたが、決定的な対立にならならなかったのは時宗が抑え込んでいたからでした。
1284年(弘安七年)4月4日、8代執権北条時宗が死去すると、9代執権に北条貞時が就任します。まだ14歳。
少年貞時をサポートするのが、貞時の外祖父安達泰盛と乳母父平頼綱です。
安達泰盛の弘安徳政
時宗の死後、安達泰盛は時宗の路線を引き継ぐ形で幕府権力の強化をはかる方策を打ち出していきます。
弘安徳政
この幕府改革は、御家人や寺社にとって有利な内容で、北条得宗家の御内人にとって不利なものでありました。さらに安達泰盛はこの政策を急ピッチで推し進めます。
当然、幕府内だけでなく、貴族・御家人の中から安達泰盛のやり方に反対する者が出てきます。その筆頭格が平頼綱でした。
霜月騒動
ついに安達泰盛と平頼綱の対立が武力衝突に発展します。
1285年(弘安八年)11月17日、松谷の別邸にいた泰盛は、塔の辻の自身の屋敷におもむいたのち、貞時のもとに行こうとしていました。しかし、その泰盛の行く手を御内人たちが阻み衝突がおこります。死者30人、負傷者10余人がでます。
この衝突がきっかけとなって合戦が拡大されていきます。激戦の中で将軍御所も炎上しました。
午後四時ごろには合戦は終わったらしく、泰盛をはじめ、嫡男の宗景ら安達一族は討死あるいは自害して果てます。
安達氏は、かつてライバルの三浦氏を挑発によって滅ぼしましたが、霜月騒動で自身が滅亡することになったのでした。
この合戦は、単なる鎌倉でのいざこざから発生・拡大したものではないと考えられています。つまり、安達泰盛派と平頼綱派にわかれた綿密な計画の上に実行された戦いということです。
なぜなら、霜月騒動を鎌倉での偶発的な衝突とするには、犠牲者やその余波が大きすぎるからです。
この戦いで500余人もの御家人が討死・自害しています。安達一族だけでなく、その分家の大曾祢氏や姻族である小笠原氏、さらには武藤景泰・足利(吉良)満氏、小田・小早川などの有力諸氏も含まれていました。安達氏が守護だった上野国や武蔵国の御家人の多くが滅亡していきました。
さらに、北条氏内部にもその影響は及んでいます。泰盛の娘婿の金沢流北条顕時は下総に蟄居となります。
この鎌倉での合戦は各地に波及しました。
泰盛の弟重景は常陸国で、城太郎左衛門尉は遠江国でそれぞれ自害します。播磨の安達一族は美作に逃げましたが、捕らえられ滅ぼされます。
泰盛の次子盛宗は、九州での訴訟を担当するため博多に下向していましたが、同地で殺害されました。安達盛宗に少弐景資が味方したため、兄の少弐経資に攻められ自害しています。元寇でその名をとどろかせた少弐氏も兄弟が血で血を流すことになります。これを岩戸合戦とよびます。
このように、鎌倉から全国各地拡がった騒乱を弘安合戦、あるいは霜月騒動といいます。
時宗の死後から1年半の出来事でした。そして、霜月騒動は有力御家人が討たれる最期の戦いともいえるのでした。
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