得宗・北条高時の遺児北条時行とその残党が起こした「中先代の乱」とよばれる大規模な反乱は、京都から足利尊氏率いる軍勢が下向したことで鎮圧されました。
8月2日に尊氏は京都を出発していますが、喜んで尊氏軍に従った人は数知れずという状況だったようです。
尊氏離反
後醍醐天皇は、尊氏が鎌倉を奪回した報告を受けると、尊氏の官位を従二位に昇進させ、その勲功を賞します。
そして、勅使を送って「争乱は終わり世は静かになったので、すみやかに上洛するように。武士たちへの恩賞は、天皇の綸旨をもっておこなう」と伝えさせました。
尊氏が勝手に武士に恩賞を与えているという報告が後醍醐天皇の耳に入っていたようです。
このとき、尊氏は勅命に従い京都に戻ろうとしましたが、弟直義が「せっかく京都から脱出できたのに、新田や名和のような敵勢のいるところに戻ろうとするのか?(意訳)」と強く反対します。
尊氏は10月15日、鎌倉若宮小路の旧鎌倉将軍邸に新邸を造って、二階堂の仮住まいから移りました。尊氏は、鎌倉に踏みとどまる姿勢を後醍醐天皇に示したのです。当然、その間も勝手に恩賞を与え続けています。
尊氏は、かつての源頼朝のごとく鎌倉にとどまって配下の武士たちと主従関係を構築し始めました。このとき、尊氏は「征夷大将軍」を自称していたと言われています。
「尊氏謀叛」が明らかになると情勢は急激に悪化します。
悩める尊氏
新田義貞が尊氏を討つために関東に下向するという噂が入ると、尊氏は義貞の上野国守護を没収して上杉憲房に与えました。守護の任命権を含む、東国支配権を行使し始めたのです。
これに対抗して、新田義貞も越後・播磨国などの自身の知行国内にある足利一門の所領を奪って家人に与えました。
尊氏と義貞の対立は一気に高まります。直義は、新田義貞を誅罰するためと称して各地に軍勢催促を行います。
一方で尊氏は、義貞討伐を後醍醐天皇に上奏します。後醍醐天皇はこれを無視して、逆に尊良親王を上大将とし、新田義貞を大将とする尊氏追討軍の派遣を決定したのでした。
こうして、後醍醐天皇と尊氏の対立は決定的なものとなったのです。
ところが、この知らせを受けとると尊氏は、「私はいつも後醍醐天皇の近くにいて、その恩を忘れたことはない。今度のことは私の願うことではない」(『梅松論』)と言って、政務を直義に譲り、鎌倉浄光明寺に籠もってしまいます。
配下の武士たちから敵前逃亡したと言われても仕方のない行動でした。
従来、この件に関しては、尊氏が旧来の尊王思想から完全に開放されていなかったからとか、あるいは躁うつ的な性格によるとか説明されてきましたが、現在はその説は否定されつつあります。
この時期の尊氏は、後醍醐天皇と直接対決せずに、鎌倉を拠点とした東国政権樹立を考えていた可能性があるのです。
かつて、頼朝が後白河法皇に東国政権を認めさせたことを意識していたと考えられます。
また、朝敵になった場合に今後の戦いが困難を極めることを考慮していたと考えられます。
ギリギリまで戦いを避けたかったのが尊氏の本音ではないでしょうか。
天皇を相手に戦わなければならなくなった尊氏の受けるプレッシャーを推してはかるべきではないでしょう。
朝敵尊氏
1335年(建武二年)11月19日、新田義貞率いる尊氏追討軍が京都を出発しました。
鎌倉からは高師泰を大将とする軍が西進し、三河矢作川で新田義貞を迎え撃ちますが敗北。
その後の遠江鷺坂(静岡県磐田市)・駿河今見の戦いでも敗れました。
同時に後醍醐天皇は、尊氏と直義の官位をはく奪します。尊氏・直義は、朝敵とされたのです。
翌月12日、直義は大軍を率いて鎌倉を出発、駿河手越河原(静岡県静岡市)で義貞軍と激突しましたが敗北。
このとき、義貞方に佐々木高氏(道誉)など寝返った者が数多くいました。
尊氏が朝敵になることを恐れ、後醍醐天皇と敵対することを最後まで悩んだのは、朝敵とされた軍のもろさを知り尽くしていたのです。
事実、尊氏が滅ぼした北条氏は奮戦むなしく、朝敵としてあっけなく滅んでいます。
直義は箱根まで後退し、高師直・師泰らとともに箱根山水呑(静岡県三島市)に堀切を掘って最後の防衛線として、義貞軍を待ち受けました。
箱根・竹之下の戦い
敗戦の報告を受けた尊氏は、「もし左馬頭(直義)が命を落としたならば、我が生きていても無益。ただし違勅(帝に弓引く)の考えはいっさいない。それは八幡大菩薩もご存じである」(『梅松論』)と言って出陣します。
『太平記』には、尊氏が建長寺に入って、髪の本結を切り隠遁の意を示したので、尊氏の行動に困った周囲の人々が一計を案じて、「たとえ隠遁しても、その罪を許さず、尊氏・直義を必ず誅伐せよ」という文面のニセモノの綸旨を作成しました。
それを尊氏に示したところ「サテハ一門ノ浮沈此時ニテ候ケル」と言って出陣したと記されています。
ちなみに、『太平記』の続きでは、本結まで切った尊氏が出陣するにあたり、鎌倉中の軍勢が「一束切」という髪を短くして、尊氏の異様さを紛らわせようとしたとあります。
この『太平記』のシーンは有名な話ですね。
12月8日、鎌倉を出発した尊氏は、箱根の直義と合流せずに、箱根の北を迂回して足柄峠(神奈川県南足柄市)へと別行動を開始します。
『梅松論』では、「全軍で水呑の堀切で防戦しても、戦況は不利となる。それよりも箱根山を超えて新手で合戦し敵の意表をつくべし」という尊氏の計略だったと伝えています。
つまり、義貞が直義の箱根山に戦力を集中してきた場合には、敵の側面や背後に回って奇襲攻撃をかけることが可能となります。また、義貞が兵を二つに分けた場合には、箱根峠と足柄峠の二つのルートで迎撃することが可能になるわけです。
義貞は軍勢を二手にわけました。
伊豆国府(静岡県三島市)を出た義貞本隊は直義の箱根峠に向かい、尊氏の足柄峠へは尊良親王、副将軍脇屋義助(義貞の弟)以下大友貞範・塩谷高貞らが向かいました。
そして12月11日朝、足柄峠を超えた尊氏軍は尊良・脇屋軍と激突し、上から襲い掛かりました。激戦の末、尊氏軍が優勢となり、勢いに乗って勝ち進みます。
尊良・脇屋軍は佐野山(静岡県三島市)で軍勢を立て直そうとしますが、翌12日に尊氏軍は佐野山に猛攻撃を仕掛けます。
新田方の大友貞戴・塩谷高貞が降伏してきたので、尊氏はこれを許し、両人は大いに奮戦します。
降参人を味方につけながら戦局を優位にすすめるのが尊氏の常套手段で、過去に六波羅探題攻撃時、あるいは後の九州からの西上作戦もこの方法を採用しています。
竹之下合戦とほぼ同時に、箱根でも義貞軍と直義軍が激突。
戦いは義貞軍優位に進みましたが、竹之下合戦で尊良・脇屋軍が敗退した報せが入ったこと、さらに佐々木道誉が足利軍に寝返ったことで形成は一気に逆転し、義貞の兵は壊滅しました。
義貞は、100騎ばかりの兵とともに箱根から撤退。
13日、尊氏は撤退してきた貞義軍を伊豆国府で迎え撃って殲滅させます。
義貞は富士川を渡って逃亡。
この勝利は、尊氏と直義が緊密に連携しつつ敵を迎え討ったことによってもたらされたものでした。
後醍醐天皇から朝敵とされた最初の戦いに勝利したことで、尊氏の天下取りの道は大きく切り開かれたのでした。
参考文献
小林一岳『日本中世の歴史4~元寇と南北朝の動乱』吉川弘文館。
佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。
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