源義家が没したのちの河内源氏は一族内の争いによって、その勢力は衰退。弱年14歳の為義(頼朝の祖父)が嫡流の座に就くものの、源氏一族の内紛の影響が残り、院と結んだ平氏の躍進もあって、源氏の嫡流は雌伏の時代というべき時期に突入しました。そんな、落ち目の嫡流の河内源氏とは別に、別の河内源氏が関東で勢力を拡大させていきます。
今回は、関東の源氏の動向に焦点を当ててみましょう
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河内源氏の関東進出
河内源氏の嫡流とは別の河内源氏は主に北関東に進出していきました。南関東の房総・相模・武蔵・伊豆方面には坂東平氏が進出していたことから、源氏は坂東平氏の力が及ばない北関東に活動の場を求めたのです。
源氏が関東に進出する前のこと。関東は、承平・天慶の乱を契機に成立した軍事貴族の貞盛流平氏・秀郷流藤原氏・清和源氏のうち、貞盛流平氏と秀郷流藤原氏の間で分割が行われていました。そして、平忠常の乱が起こると、清和源氏の源頼信(河内源氏祖)が関東に勢力を伸ばしましたが、貞盛流・秀郷流は地方軍事貴族としての道を選び、河内源氏は中央の軍事貴族=京武者としての道を選びます。
佐竹氏・武田氏
河内源氏の源義家が「武士の長者」と呼ばれ、一時は勢力を拡大させましたが、嫡流が内紛によってその勢力が衰えると、義家の弟義光や子供たちが、関東に勢力を築いていきます。
佐竹氏
義家の弟義光は、北関東に基盤を築きました。後三年の役に際して、義光は義家に従って陸奥に赴いた後、義光の子義業は常陸平氏の婿となります。またその子昌義は常陸北部の久慈郡佐竹郷を中心に基盤を築きました。源氏の流れをくむ佐竹氏が常陸国に基盤をもつのはこのことによります。義成は奥州藤原氏の清衡の前妻との間にも婚姻関係をもち、北関東に血縁を広げることになります。
武田氏
義光流のもう一つは、甲斐を拠点とした武田氏があります。義光の子義清は、常陸国那珂郡武田郡を本拠としましたが、やがて常陸平氏の大掾氏と対立。さらに、その子清光が乱行を働いたことから、父子ともに甲斐に根拠を移しました。甲斐源氏の逸見・加賀美氏、信濃源氏で平賀氏の祖平賀盛義・義信父子や、義信の子大内惟義などはその子孫にあたります。平賀義信や大内惟義は、のちに源頼朝から鎌倉殿一門としての地位である「門葉」に列せられています。
足利氏・新田氏
義家の三男義国は、下野・上野へと進出し、足利氏や新田氏の祖となります。しかし、この地はもともと秀郷流藤原氏の勢力が強かったので、秀郷流と競合することになりました。
義国以前の河内源氏と下野の関係をみると、源満仲や義家は下野守を務めています。さらに義国は、義家と摂関藤原師通の家司藤原有綱の娘との間に生まれていて、その有綱は上野国知行国主日野家の傍流でした。義国の上野国の進出には、母の実家有綱一族の支援があったと考えられています。しかも、義国は京武者として都で活発に活動していて、従五位下の位階を得て、北面の武士として伺候しています。
源氏嫡流は南関東へ
こうして、北関東には、義家以来の河内源氏の庶流が基盤を築きつつありましたが、義光と義国の間で対立も生じました。常陸大掾氏の平重幹と結んだ義光と、義国の間で戦われた紛争(常陸合戦)は深刻なもので、両者とも白河院の勅勘に触れています。
こうした中で、源氏嫡流たる為義が進出する場所は、南関東ということになります。南関東は、先にも述べたように坂東平氏の勢力圏にありました。そのような中で、源氏の進出を可能にしたのは、平忠常の乱に際して、乱の平定に失敗した平直方(貞盛流平氏)に源頼信の嫡男頼義が迎えられていて、その所領や鎌倉の屋敷、伝統的権威を直方から頼義に譲り与えられたからでした。さらに、頼義は相模守だったこともあり、特に相模は源氏嫡流の足場となります。
為義は嫡男義朝を関東に派遣し、坂東武士の再編にあたらせました。義朝は、1123年(保安四年)に淡路守藤原忠清の娘を母として都で生まれました。そして、幼少の時に関東に下り、23歳から24歳頃までいたと言われています。父祖相伝の地としての相模国鎌倉の亀谷の館を拠点に、近隣の武士の統合に乗り出し、関東一帯へと勢力拡大をはかりました。
こうして、為義以後、長子義朝は相模・上総・下総方面に勢力をのばし、次子義賢は武蔵で活動するなど、南関東の地に割り込む形で源氏の勢力が進出していくことになり、保元・平治の乱を契機にはじまった内乱期における河内源氏勢力の活動の前提ができあがっていくのでした。
参考文献
竹内理三『日本の歴史6~武士の登場』中公文書。
木村茂光『日本中世の歴史1~中世社会の成り立ち』吉川弘文館。
福島正樹『日本中世の歴史2~院政と武士の登場』吉川弘文館。
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