当サイトは鎌倉幕府・時代から室町幕府・時代に光を当てることを企てているのですが、この時代の理解促進を妨げる用語に「得宗(とくそう)」があげられるのではないでしょうか。得宗って執権?北条の何?そもそも誰?・・・。
鎌倉時代が好きであれば、常識的な用語、いや寝ても覚めても連呼したい用語「得宗」なんですが、好きではなかったり、関心を持ち始めたばかりの時はどうしても混乱をもたらす用語と思うのです。
というわけで、今回は簡単ながら得宗について確認しておきたいと思います。当サイトも連発していますし・・・。
執権と得宗の違い
得宗(とくそう)とは、鎌倉時代の北条氏の家督のことを指します。北条時政以降、北条氏にはたくさんの分家ができるのですが、ここでの家督とはそれら分家を含めた北条一族の棟梁、つまり本家の当主のことです。
具体的な人物として、北条時政から義時・泰時・時氏・経時・時頼・時宗・貞時・高時の9人が北条一族の棟梁である得宗なのです。
この9人中8人は執権でもあったので(時氏は早世したので執権になっていません)、執権と得宗がごちゃごちゃしてしまうのですが、執権と得宗は別物です。
執権とは、将軍を補佐しつつ、政所別当と侍所別当を兼務して御家人を統率する役職です。一方、得宗とは北条一族の家督(棟梁)の別称です。
鎌倉幕府の歴代執権は16人いましたが、そのうち8人が北条一族の棟梁(得宗)だったのです。
それでは、なぜ棟梁のことをわざわざ得宗と呼ぶのか?を語る前に、得宗という言葉の意味は何ぞやという話です。
得宗の由来
得宗の由来については様々な説がありますが、2代執権北条義時の追号と考える説が有力になっているようです。追号とは死んだ人に送る戒名のようなものです。
正式には「徳崇」で、「徳(得)崇(宗)」という当て字が使われるようになったと考えられています。この追号を送った人物は5代執権北条時頼とされています。
この追号の意味するところは「徳の有る人」という意味で、義時は「徳の有る人」という号が死後数十年経って、ひ孫から送られたことになります。
それでは、なぜ時頼は義時に追号を送ったのかという疑問が生じるわけですが、時頼は名越流北条光時と「家督」の座を巡って争っていました。「保暦間記」によれば、経時に代わって時頼が執権に就任したとき、名越光時は「自分は義時の孫だが、時頼はひ孫に過ぎない」と述べた逸話が残っています。
時頼は、内に北条一族内の争いを抱え、外に有力御家人との勢力争いを抱えていたのです。そこで時頼は、道崇という自分の法名の一字をとって義時の追号を徳崇とし、義時と自分を結びつけてその正当性を主張したのでした。のちに徳崇は得宗と表記されるようになったと考えられています。
ですから、時頼の時代までは義時・泰時・経時・時頼は北条一族の棟梁でしたが、得宗とは呼ばれていなかったことがわかります。
得宗と呼ぶようになった理由
それでは、いつから北条一族家督のことを得宗と呼ぶようになったのかというと時宗からです。しかも自称です。自称「得宗」。
それでは、なぜ自称したのでしょうか。
蒙古襲来です。蒙古襲来の未曽有の危機が高まる中で、幕府・御家人を一致団結させる必要性がでてきました。
そこで時宗は、将軍惟康王を臣籍降下させて源惟康を名乗らせ源氏将軍を頂きます。惟康を源頼朝になぞらえ、幕府本来の姿を再現したのです。そして、時宗自身は頼朝を補佐した北条義時になぞらえて徳崇・得宗を自称したのです。
時宗が得宗を自称した結果、時宗の子貞時以降になって、時宗以前の家督のことも得宗と呼ぶようになっていきました。
得宗のブランド化
得宗は、徳崇から「徳の有る人が行う政治」、つまり「徳政をおこなう為政者」としての意味を持つようになり、得宗の名そのものに価値がうまれてきます。
天皇・将軍と同じレベルで価値が上がったとは思えませんが、得宗の名に「箔」がついたのです。現代でいうとブランド化したわけですね。
得宗は、単に北条氏の家督だけでなく、幕府の頂点に君臨するような役職的な意味合いが含まれるようになったのです。
参考文献
細川重男『北条氏と鎌倉幕府』講談社。
秋山哲雄『鎌倉幕府滅亡と北条一族』吉川弘文館。
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