得宗北条氏と名越北条氏~争いの始まりから決着まで

鎌倉時代
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得宗が交代する時、つまり前代の得宗が死去し、新しく得宗が立つとき、北条一族では必ず内紛が勃発します。

義時から泰時へ、泰時から経時へ、経時から時頼へ、時頼から時宗へと代が変わるときに内紛がおこっています。もちろん、一族郎党巻き込んでド派手にドンパチやるわけではありません。そんなことをしていたら、三浦氏や足利氏に幕府を乗っ取られてしまうことでしょう。

なぜ内紛が起こるのでしょうか?

それは、北条一族の家督(棟梁)の座を巡って、得宗北条氏と名越流北条氏が対立していたからで、得宗北条氏の代替わりのときに内紛がおこるわけです。

一般的に、北条氏は他の御家人と勢力争いを繰り広げ幕府を独占していくイメージがあると思いますが、それらの争いの裏で同族内での争いを繰り広げていたのです。

今回は、得宗北条氏に立ちはだかった名越流北条氏を見ていきましょう。

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北条氏の嫡流は名越流?

北条氏は、時政より以前の系譜が明らかになっていないどころか、時政には一族らしい者は時定(従兄弟とも、甥とも)くらいしかいません。時政と時定がどういう関係かすら明らかではないくらいに「正体不明」な一族なのです。時政の父や祖父の名すら正確に伝わっていません。時政やその子義時は知っていたでしょうけれども、時頼や時宗が知っていたかどうかは怪しいのです。

 

北条時定・北条時政の従兄弟。甥とも弟とも。
時政より以前の北条氏の系図はあいまいで、北条時政の父親ですらその名前は正確ではありません。執権として幕府を動かし、日本の歴史を動かした北条一族ですが、その出自は実にあいまいなものなのです。 また、鎌倉時代に登場する北条氏は全て時政の子孫と...

 

しかし、時政以降の北条氏は多くの分家を輩出し、一族は繁栄していきます。その分家の一つが名越流なのです。得宗家の方が分家と言った方が正解なのかもしれません。

これはどういう事でしょうか?

まず、名越流の祖である朝時は北条義時と後妻姫の前(比企朝宗の娘)の間の子で、3代執権泰時とは異母弟にあたります。名越の由来は鎌倉南東部にある地名です。ここには北条時政の邸宅がありました。名越流はその邸宅を継承したことから、名越氏と呼ばれるようになったのです。

先ほど、得宗家の方が分家かも知れないと言いましたが、どういうことか話を戻しましょう。

『吾妻鏡』では、時政は「北条殿」と記されていますが、息子の義時は「江間殿」と表現されています。義時の子泰時にいたっては、北条泰時と呼ばれることはなく江間泰時です。

『吾妻鏡』は北条貞時の時代、つまり「得宗専制時代」に書かれたものですが、直系の祖先の義時や泰時を「北条」と呼ばないのは訳があるのかもしれません。

それでは、江間とは何だ?という話です。江間とは、北条氏の本拠地だった伊豆国田方郡北条(静岡県伊豆の国市)の狩野川を隔てた向かいにある地名です。北条氏の所領であることは間違いありませんが、飛び地の所領を名字にする時点で義時が北条氏の嫡流だった可能性は低いと考えられているのです。

 

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それでは、名越も伊豆国北条と違う地名ではないか?と言うことになりますが、江間とは決定的に違うのは、名越は(武家にとっての)首都鎌倉での北条氏の本拠地なのです。

このことから、時政の後継者は時政の名越邸を継承した名越氏だったと考えられるのです。

時政は、なぜ孫を後継に望んだのか?という疑問が生じるのですが、朝時の母は比企氏出身です。比企氏といえば、1203年(建仁三年)に「比企能員の乱」で滅亡するまで北条氏を凌ぐ勢力を幕府内で築いていました。

ですから、時政の頭の中では、比企氏の血を引く朝時に家督を継がせることで、比企氏との関係を「うまく」運ぼうとしたのかもしれません。

最終的に、当の北条時政の謀略によって比企氏は滅亡するわけです。

 

比企氏が勢力を拡大した理由と「比企能員の乱」をわかりやすく
鎌倉幕府ナンバー2にして、実質ナンバー1な北条氏。 北条氏は次々とライバル御家人を滅ぼし、幕府内での位置を高めていくわけですが、本格的に滅ぼした最初の氏族は比企氏と言われています。 今日は、その比企氏との争いについて考えてみましょう。 ...

 

比企氏が滅亡した結果かどうかはさておき、江間義時とその子江間泰時系統が執権となり、北条一族の棟梁たる得宗として活躍するのに対して、名越氏は時政の後継者的立場にありながら幕府内で有力な地位に就くことは出来ないでいました。

もちろん、比企氏の遺産とも言えるものは名越氏が引き継いでいますので、名越氏が落ちぶれたわけではありません。得宗家と張り合う力は十分にあります。

このように、得宗家と名越氏が長年にわたって対立してきた背景には、北条氏の正統を巡る対立があったことが考えられるのです。

朝時と泰時

名越氏の祖である北条朝時は、承久の乱で北陸道の大将軍になるなど幕府内では重要な役割を果たしていたと言えます。

義時が没したのち、泰時が執権の座に就きます。この時に起こった事件が「伊賀氏の変」です。

 

伊賀氏の変と北条泰時・三代執権の座を巡る北条氏の内紛劇を解説
1224年(元仁元年)6月13日、北条義時は死去しました。 「吾妻鏡」によると、日ごろから脚気(かっけ: ビタミン不足で神経障害が発生し、最悪心不全にいたる場合も)があったところに、6月12日に急性胃腸炎を発して、翌日に没するという急死で...

 

このときの朝時の動静は明らかになっていませんが、義時の法要に出席していることから事件に無関係だった可能性が高いです。

1236年(嘉禎二年)9月10日には、泰時が幕府に設置した評定衆にも就任します。しかし朝時は、一度だけ出仕した後に評定衆を辞退しており、「やってられるか!ボケっ!」という感じでしょう。この頃からすでに得宗家と名越氏の対立は表面化していたのでしょう。

 

泰時の執権政治~「評定衆と連署」の設置にいたる経緯と背景を解説
1224年(元仁元年)7月、伊賀方(いがのかた)らを中心とする伊賀氏の画策は失敗し、尼将軍北条政子・幕府宿老の後押しを得て、北条泰時は執権に就くことになります。 とはいえ、執権になった泰時の北条氏内の立場は、まだまだ弱いもので...

 

実際のところは、朝時と当時の執権泰時との関係が破綻することはありませんでしたが、朝時と泰時の不仲は京都にも知れ渡るくらい有名な話だったようです。

1242年(仁治三年)、朝時は余命幾ばくもなくなった泰時の出家を受けて自らも出家を遂げます。このことについて、「吾妻鏡」には記載がなく、京都の公卿平経高が鎌倉からの話として日記に記しています。

その内容を要約すれば「朝時が出家したけど大丈夫か?鎌倉で何が起こったのかわからないけれども、京都~鎌倉間が封鎖され物々しい状態になったぞ」とのことです。朝時、謎の出家です。

 

【宮騒動・寛元の政変】執権経時・時頼兄弟による反執権派追放劇
1219年(承久元年)、3代将軍源実朝が2代将軍頼家の遺児で鶴岡八幡宮別当の公暁によって暗殺され、源氏将軍は3代で途絶えます。 実朝後の鎌倉殿を継ぐため、わずか2歳で鎌倉に下向した三寅(さんとら)は、1225年(嘉禄元年)に元服し藤原頼経...

 

朝時は、「泰時兄さんに従います」と普通に出家したのかもしれませんが、朝時の息子たちと得宗家の争いを見ていると、朝時が従順に出家したと思えません。都に聞こえるくらい仲が悪かったのですから…

ですから、朝時の出家は、泰時が命じて行われた可能性があります。その理由は、泰時の後を継いで執権となる孫の経時がまだ19歳だったため、泰時死後、朝時が経時を追い落とす可能性があったからと考えたからでしょう(泰時の子で、経時の父時氏は早世していました)。

経時の行く末を心配した泰時が、朝時に出家させてもおかしくはありません。

朝時は、泰時が没してから3年後、1245年(寛元三年)に52歳で没しました。朝時の遺言にしたがって、子息たちは善光寺で供養をおこなっています。

寛元の政変(宮騒動)~光時と時頼

1246年(寛元四年)3月23日。病気の経時に代わって時頼が執権となりました。その直後に「寛元の政変(宮騒動)」と呼ばれる事件が起こります。

 

【宮騒動・寛元の政変】執権経時・時頼兄弟による反執権派追放劇
1219年(承久元年)、3代将軍源実朝が2代将軍頼家の遺児で鶴岡八幡宮別当の公暁によって暗殺され、源氏将軍は3代で途絶えます。 実朝後の鎌倉殿を継ぐため、わずか2歳で鎌倉に下向した三寅(さんとら)は、1225年(嘉禄元年)に元服し藤原頼経...

南北朝時代に成立したとされる歴史書の『保暦間記』によれば、この時に名越光時(朝時の子)は、「自分は義時の孫だが、時頼は義時のひ孫に過ぎない」と口にしたといいます。光時が時頼の執権就任をこころよく思っていなかったことをうかがい知ることができるエピソードです。

さらに、光時は摂家将軍藤原(九条)頼経の近くに侍って、反執権サロンのようなものを作っていたそうです。当時将軍頼経に信頼されている自負もあったに違いありません。

時頼は事前に光時の動きを封じました。何がどうあったのかその詳細は不明なのですが、5月23日になって勝算のないことをさとった光時は、出家して髻(もとどり:髷のようなもの)を差し出して、時頼にわびをいれました。北条時頼・北条政村・金沢実時・安達義景による密談が行われ、事件の処置について話し合ったようです。

光時の弟の時幸も出家し、その6日後に自害を遂げています。名越時章、時長、時兼らは、事前に野心のないことを時頼に告げて陳謝したため処罰されることはありませんでした。

光時は伊豆国江間に流されて失脚しましたが、皮肉なことに光時の子孫は名越氏の嫡流から外れ、江間氏を名乗ったそうです。

結局、寛元の政変(宮騒動)の時に、まだ12歳と幼かった教時と時基の2人を除く、朝時の子息5人全員が時頼によって責任を追及されたことになります(3人は処罰されていませんが、政治生命は絶たれました)。

寛元の政変で時頼に陳謝して許された時章・時長・時兼のうち、時長と時兼はともに1252年(建長四年)に没します。事件から6年後のことでした。

そして、時章はのちに教時とともに、のちの「二月騒動」で討たれています。

二月騒動~名越氏と時宗

1272年(文永九年)2月11日。名越時章と教時の邸宅が突然襲われました。時章は自害し、教時は子息とともに討たれてしまいます。

 

時宗の執権就任~将軍宗尊親王の追放&二月騒動、寄合政治の本格化
1263年(弘長三年)11月、北条時頼は最明寺において37歳の生涯を閉じました。戒名は最明寺道崇。 執権・得宗北条時宗の誕生 当時は6代執権赤橋流北条長時、連署は政村でした。時頼の子の時宗はまだ13歳。幕府としては、まだ眼代(中継ぎ)として...

 

ところが、すぐに時章の討伐は誤って行われたことがわかりました。そして、逆に時章を襲撃した5人が斬首となります。教時の追手に対しては賞罰共になかったそうです。

同月15日。京都では北方と南方の二人が並ぶ六波羅探題のうち、北方の赤橋義宗が南方の北条時輔(時宗の庶兄)を襲撃してこれを討つという事件が起こります。

この二つの事件をあわせて「二月騒動」と呼びます。

時章を誤って襲撃したという理由で斬首された5人のうち、3人は時宗の被官で、1人は政村の被官でした。残る1人も時宗の被官であった可能性が高いとされています。

被官とは、従者・家来のことです。討手の主人が当時の執権・連署の時宗・政村だったのですから、時宗・政村が名越兄弟を襲撃させたと考えて間違いないでしょう。

それでは、なぜこの二人は「消された」のでしょうか?

名越教時は、宗尊親王が鎌倉を追放される時に、幕府近くまで軍勢を引き連れ示威行動にでた人物だったのです。

つまり、時宗・政村に対して敵対する勢力の急先鋒で、その結果、殺害されたと考えられています。

一方の名越時章は、鎌倉では執権・連署につぐ地位である一番引付頭人の立場にありました。そして、鎮西に多くの守護職をもつ有力な御家人でもあったのです。時宗・政村に敵対した教時と違って、むしろ協力していた側でしょう。

もし、時章に殺害される理由があるとしたならば、蒙古襲来を前に鎮西の体制強化を急ぐ時宗・政村から「邪魔者扱い」されたとしか考えられません。

蒙古襲来に備えて、時宗は幕府を「身内」で固めて団結を図っていきます。名越氏は得宗家にとって「身内」ではありません。

実際、時章への襲撃は誤りとされたにも関わらず、筑後・肥後・大隅の3か国の守護は名越氏の手を離れて大友頼泰・安達泰盛・千葉宗胤ら時宗派の御家人にそれぞれ与えられています。

時章に対する大義名分のない誅殺を正当化するために、誤りということにして時宗・政村の被官がトカゲのしっぽのように切られたと考えられます。

それでは、なぜ時宗は身内で固めて行ったのでしょうか?

鎮西は、鎌倉から遥かに遠く耳目の届かない場所です。元々が東国の武士政権としてスタートした鎌倉幕府にとって、鎮西の統治について深く考えてこなかったと思われます。

蒙古襲来という未曾有の危機に対処するためには、鎮西の守護に強力な権限を与える可能性もありました。

その権限を利用して、反得宗・反幕府を策動する守護が現れることを時宗は危惧したのかも知れません。

ですから、信頼できる身内で固める必要があったと考えることがでます。

そのような中で、名越氏のような守護が鎮西にあること自体が、得宗家にとって危険だったと考えても不思議ではありません。

六波羅探題南方の北条時輔が、北方の赤橋義宗に誅されたのも、そのような理由からとされています。

その後の名越氏

二月騒動によって、約70年におよぶ得宗家と名越氏の争いは得宗家の勝利に終わります。名越氏の勢力はかなり減退しました。

名越氏の嫡流は、誤って殺害された時章の系統に引き継がれます。

時章の子公時は、得宗家に忠実な「分家」として、名越氏の地位回復に努めています。

公時の子の時家は、元寇に対応するため北条時宗の異母弟宗頼(兼時)と共に異国討手大将軍として鎮西に下向します。そして、鎌倉に帰った後は評定衆や引付頭人を歴任しました。

時家の孫高家は、元弘の乱(1333年)では「承久例」に従って足利高氏(尊氏)とともに上洛軍の大将軍を任されます。

承久例とは、承久の乱での鎌倉幕府軍の軍制のことで、承久の乱以来、上洛軍は北条氏と足利氏が大将軍をつとめるのが先例となっていました。

尊氏が「病で上洛は無理」と言っても、幕府からしつこく大将軍として上洛するよう催促を受けた理由として、承久例の存在がありました。これにカチンときた尊氏は六波羅探題を攻めてしまいますが…

鎌倉から尊氏とともに上洛した名越高家は、京都を発って山陽道経由で後醍醐天皇が立て籠もる船上山に向かう途中(尊氏は山陰道経由)、赤松・千種らの軍勢と久我畷(京都市伏見区)で激突し、討ち死にします。討ち死にした理由として、兜がきらびやかで目立ちすぎたからだそうです。

鎌倉幕府滅亡後も、中先代の乱に代表されるような北条氏残党の挙兵に呼応するなどして北条氏再興に奔走したようです。

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