北条政子が源頼朝に嫁がなければ、伊豆の弱小豪族で終わっていたかもしれない北条氏。その北条氏は、頼朝によって歴史の表舞台に現れ、頼家・実朝の外戚という地位を利用しながら幕府内での権力を強めていきます。さらに相模国司・武蔵国司になることで、領土的支配権も拡大していきました。
和田義盛の興隆
上総国司を望んだ和田義盛
1209年(承元三年)5月、侍所別当の和田義盛は将軍実朝に、自分を上総国国司に推挙して欲しい旨を希望します。実朝はそれを母政子に相談したところ、
「故将軍頼朝の時、御家人が国司に任命されることは禁止されています。義盛の希望を許可できないのではないでしょうか。そのような例を始めるというのであれば、女性の私は口出しできません」
という返事でした。実朝は義盛の希望をかなえてやることができませんでした。そこで、義盛は大江広元に嘆願書を出して、上総国司推挙のことを再び希望しましたが、これもまたはっきりした措置がとられません。
ここで、鎌倉時代初期の国司がどのような存在だったのか確認しておきましょう。武士の世=朝廷の支配機構が崩壊していると考えがちな私たちですが、朝廷の支配機構は崩壊していません。鎌倉時代は朝廷の支配機構の中に幕府が存在していました。
義盛が上総国司任官を望んでいた当時、御家人の中で国司に任命されたのは北条義時=相模守、北条時房=武蔵守、源親広=遠江守の三人でした。
これ以前、1184年(元暦元年)は源範頼と平賀義信、1185年(文治元年)は源義経・新田義範・足利義兼です。そして、1200年(正治2年)に北条時政が遠江守に任命されています。1199年(建久十年)頼朝が死去しているので、北条氏は例外中の例外で任官したのです。頼朝の妻の実家であること、頼家の外戚であることが考慮されたといえます。
このように、国司に任官できる者は源氏一門と外戚の北条氏のみでした。和田氏が国司任官できる要素はなかったのです。
侍所別当として勢力を拡大した和田義盛
幕府の侍所は、1180年(治承四年)に設置され、その長官である別当は和田義盛が長い間就任していました(一時、梶原景時も就任したことがあります)。
>>>梶原景時の追放を率先したのは和田義盛
和田氏は三浦氏の一族で三浦大介義明の長子義宗を祖としました。しかし、義宗は1163年(長寛元年)安房国の合戦で戦死したため三浦氏を相続できませんでした。この義宗の子が義盛です。
義盛は頼朝蜂起に際し、他の三浦氏とともに頼朝と合流するため三浦を出発し、三浦一族の棟梁である義明のもとで行動をとっていました。
義明の死後、三浦氏の棟梁は義澄が継ぎますが、幕府侍所には頼朝挙兵のときからの功績が認められた和田義盛が就任します。
侍所は、平時あっては幕府の警察機能と鎌倉の治安維持が主な任務ですが、有事になると御家人の統制が最も重要な職務になります。たとえば、1185年(文治元年)源範頼・義経が平家追討のために出陣したとき、義盛は軍目付として範頼に従い、奥州藤原氏追討では御家人を招集したのも義盛と景時でした。
頼朝死後、幕府草創期の功臣が死去して義盛が宿老のような存在になったことや、侍所別当の職務上から義盛は御家人に対して大きな影響力をもつようになります。
三浦一族棟梁の義澄といえども、侍所別当の和田義盛の命令に従わなければなりません。ですので、愚管抄には「和田義盛は三浦の棟梁」と記されている通り、和田義盛が主家の三浦氏よりも勢力を拡大し、三浦氏から独立する動きにでても仕方のない話なのです。
>>>滅んだ幕府草創期の宿老たち
侍所別当・上総国司で北条氏に対抗したい
このように義盛は侍所別当という幕府要職に就任していましたが、官職は「左衛門尉」で官位は六位相当でした。一方、1204年(元久元年)に北条義時は相模守、1207年(承元元年)に北条時房が武蔵守に任じられ、いずれも官位は五位相当です。和田義盛は官位の面でも北条氏にリードされていました。
鎌倉所在国の相模国、その背後の武蔵国の最高官職に北条氏が就任するということは、北条氏がその国のヒト・モノ・カネを手に入れることを意味していました。国衙(国司の役所)にはその国の基本台帳をはじめとする基本帳簿が保管されており、工房がありました。国衙自体が交通の要衝にあります。
鎌倉時代に入っても国衙の重要性、役割は健在だったのです。国司に任命されて国衙とその支配機構を掌握しなければ、本当に支配したとは言えない時代だったのです。
※室町時代に入って、国司は実質上消滅します。室町幕府が国司の役割を守護に負わせたからです。
北条氏に対抗するには、和田義盛もまた国司に任命され、国衙を通じて一国を支配する必要がありました。また、国司は源氏一門と北条氏しか任命されないことから、和田氏が国司に任命されれば、北条と並び、他の御家人より一歩抜きんでる意味合いがあったのです。
それでは、なぜ上総国司を希望したのでしょうか?
三浦半島と房総半島は古代から交易が盛んでした。上総国の浦賀水道(東京湾)を隔てたむこうに鎌倉や三浦半島があります。北条氏の相模・武蔵国を背後からけん制する意味でも上総国の掌握は重要なことでした。
※正確な資料はないものの和田義盛が上総国の守護に任命されていた説があります。
和田義盛謀叛
将軍実朝暗殺計画
1211年(建暦元年)、信濃国の泉親衡(いずみちかひら)が北条氏を倒して将軍実朝を廃し、頼家の遺子千寿を将軍に立てようという謀反を企てます。
1213年(建保元年)2月、親衡の使者である安念法師が千葉成胤に捕らえられたことによってこの企てが発覚し、多くの共謀者が捕らえられました。首謀者は130余人、伴類が200人にも及ぶ大規模なものです。
これらの謀反人は、主に信濃・越後・下総などの御家人だったことが判明しまた。そして、捕らえられた者のなかに和田義盛の子義直と義重、甥の胤長の3人が含まれていました。和田氏がこの事件に関与していたのす。
北条義時の挑発
3月8日、義盛は拠点にしていた上総国伊北庄から鎌倉に馳せ参じ、すぐに将軍実朝に対面して息子義直・義重の赦免を願い出てこれが認められ、さらに翌日9日、一族98名を率いて実朝のもとに参り、甥の胤長の赦免を願い出ました。
ところが、北条義時はこれを拒否したばかりか、胤長を捕縛したまま和田一族の面前で二階堂行村に預けて、17日になって陸奥国岩瀬郡に配流してしまいます。
事件に名を連ねた100人以上の首謀者は、将軍実朝によって赦免されており、和田胤長のみが処罰されことからわかるように、北条義時はあえて和田義盛の面目をつぶしたのです。
義時の和田義盛への嫌がらせ、あるいは挑発は続きます。
4月2日、胤長が所有していた荏柄の屋敷地は慣例に従って和田義盛に与えられましたが、なぜか突然・・・この屋敷は義時に与えられてしまいます。義時はすぐに代官を派遣し、義盛の代官を追放する行動に出ます。
和田合戦への序幕
4月15日、和田義盛の孫で、源実朝の近習だった和田朝盛が突然出家し蓄電してしまいます。将軍実朝に弓をひくことをためらったとされています。
4月24日、義盛は年来帰依していた伊勢国の僧遵道房を追放します。表向きは追放ですが、伊勢神宮に先勝祈願に派遣したと噂されました。
4月27日、和田義盛に不穏な動きや噂が流れていることを心配した将軍実朝は、宮内公氏を派遣して義盛に謀反の真否を問いただします。当然、義盛は謀反を否定しますが、彼の屋敷内には朝夷名義秀(あさひなよしひで)や古郡保忠(こごおりやすただ)ら、和田氏歴戦の勇士が集まり、さらに兵具を整えていることを宮内公氏は実朝に詳細に報告します。
この報告にもとづいて、義時は鎌倉にいる御家人を御所に集め、義盛の謀反が直前にせまったことを告げ戦の準備を急がせる命令を下しました。
この日の夕方、実朝は再度使者を送って、謀叛を思いとどまるように説得を試みましたが、義盛は「若輩の行動を阻止できるような状態にない」と返答し、使者を追い返します。
4月29日、義時は駿河に引きこもらせていた次男名越朝時を鎌倉に呼び戻します。
和田合戦
5月2日
義盛館に軍兵が集結していることを八田知重が確認し、大江広元に連絡します。義盛蜂起ついに発覚です。
すぐに、広元は将軍御所に参り、同時に三浦義村も北条義時邸に入って、義盛蜂起を報告します。
三浦義村という男。機を見るに優れているのでしょうか?当初は義盛の謀反に同意し、ともに蜂起することになっていましたが、約束を反故にして義時方に寝返りました。
>>>義村は実朝・義時を殺害する気だった?
義時は、義村から報告を得るとすぐに大倉御所に参り、北条政子以下を鶴岡八幡宮別当坊に避難させます。
5月2日午後4時ごろ、義盛は嫡男常盛以下150騎を率いて御所を襲います。義盛と他の軍勢は三手に分かれ幕府南門と義時邸の西門、北門を攻撃。しかし、守備した武士が良く防戦し、それ以上突破することができませんでした。次に広元邸が攻撃されますが、横大路にいたって政所前で合戦が繰り広げられました。
波多野忠綱や三浦義村が防戦につとめるも、午後6時頃には和田軍は幕府を包囲します。北条泰時・朝時、足利義氏が防戦しますが、朝夷名義秀は惣門を突破し、御所の庭に乱入、火を放ちます。実朝は法華堂へ逃れました。
勢いに乗っていた和田軍ですが疲労が現れはじめます。義盛は由比ヶ浜に退きます。また、米町辻・大町大路でも合戦があり、足利義氏・小田知尚・波多野経朝が反撃を加えました。
5月3日
和田軍は食料も乏しく、乗馬も疲弊の極みに達します。さらに小雨が和田軍の疲れを増幅させます。午前4時ごろ、横山時兼は波多野忠常や横山五郎らを引き連れ義盛に合流。三千騎に膨れ上がった和田軍は再び攻撃に出る。午前8時ごろ、曽我・中村・二宮・河村諸氏の軍勢が武蔵大路や稲村ケ崎周辺に到着し始めました。初めは形勢をうかがっていましたが、将軍実朝の命令が下ると、続々と北条方に加わり始め、さらに千葉成胤の援軍も到着しました。
午前10時ごろ、義盛追討令が武蔵国以下の隣国に発せられます。同じ頃、由比ヶ浜に逃れた義盛は体制を立て直し再び御所を攻撃しようと出発しました。しかし、若宮大路は北条泰時・時房、町大路は足利義氏、名越方面は源頼茂、大倉方面は佐々木義清・結城朝光が防衛線をはっていました。そのため、由比ヶ浜と若宮大路で合戦が再開。九州の住人小物資政は義盛の陣に攻め入ったが、かえって義盛に討ち取られます。京から鎌倉に来ていた公家の出雲守藤原定長は義盛の攻撃をよく防戦する働きをみせ、さらに日光山別当法眼弁覚も弟子や同宿の者を率いて、町大路で義盛方の中山行重と戦い逃亡させています。
また、義盛方の土屋義清・古郡保忠・朝夷名義秀の3騎は轡をならべて周囲の軍兵を攻撃し、北条方が退散することも度々だったといいます。
両軍は持てる勢力をすべて投入する激しい合戦でした。
ところが、勇猛果敢な義清が甘縄から亀谷を経て、窟堂の前を通って旅御所に進もうとしたところ、赤橋の近くで流れ矢にあたって戦死します。この義清の死後以降、義盛方の討ち死にが続くようになりました。
午後6時頃には、和田義直が伊具馬盛重に討ち取られ、義直の死を聞いた義盛は大いに落胆し、江戸能範の所従に討ち取られました。
続いて義重・義信・秀盛らも討ち取られます。朝夷名義秀は500騎ほど率いて船で安房国に逃げ、常盛・朝盛・山内政宣・岡崎実忠・横山時兼・古郡保忠らも行方をくらまします。義盛方は敗れました。
その直後、北条義時は大江広元と連署で謀叛人追討の命令書を各地に送りました。
5月4日以降
古郡保忠・和田常盛・横山時兼が逃げ切れずに甲斐国で自害。二人の首は鎌倉に運ばれ、片瀬川岸にさらされましたが、その首級は234を数えたといいます。6日には岡崎実忠父子三人が誅殺され、9日には陸奥国岩瀬郡に配流されていた和田胤長も誅殺されました。
執権職の確立
逃亡者の捜索と並行して、5月5日には和田方の所領が没収され、勲功のあった御家人に新恩給与されました。
同日、義時は侍所別当に任命され、幕府の要職である政所別当と侍所別当を兼務する「執権」が名実ともに確立された瞬間です。
5月6日には、義時の被官(御内人)金窪行親が侍所の次官である所司に任命されました。
御家人を統制する役所の侍所所司は、御家人が就任するのが一般的でしたが、御家人ではない北条氏被官(御内人)が御家人を統制することを意味しています。
幕府内において、北条氏被官(御内人)の身分が御家人と同等になったことを意味し、北条氏が他の御家人より抜き出る存在になったのが「和田合戦」の意義といえるでしょう。
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