1199年(正治元年)1月13日。源頼朝は突然死去します。確かな記録はないのですが、落馬が原因だったと言われています。
頼朝の後を継いだのが、頼朝と政子の嫡子頼家でした。頼家この時18歳。
ところが、頼家はいきなり頼朝の方針から逸脱します。この事件は、宿老を中心とした御家人の反発を生み、頼家の親裁が停止され、いわゆる「13人の合議制」へと移行することになります。
横恋慕事件
頼家の親裁が停止されてから3カ月後の7月のこと。
三河国で宮重広という賊が暴れているとのことで、安達景盛が出陣することになりました。景盛はこの出陣にまったく乗り気ではありませんでした。
理由は、昨年春に京都から迎えていた側室と離れることを惜しんだからです。情けないと言えば、情けない話ですね。
情けない景盛ですが、のちに北条時頼や子の義景に三浦一族を討たせた策士家でもあります。
しかし、父盛長(出家して蓮西)が三河守護である以上、国内の取り締まりを安達氏が執行しないわけにはいきません。盛長はすでに65歳。そうした事情で、名代として景盛は三河に出陣したのでした。
ところが、景盛が鎌倉を発ったと見るや、頼家は側近の中野五郎を遣わして景盛の京都から来ていた側室を連れ出し、小笠原長経の屋敷に置いて、自分の側室にするという暴挙にでたのです。
以前から、頼家は彼女に何度も手紙を送っていて、女性は頑なに拒んでいました。
頼家が暴挙に走った理由を『吾妻鏡』は、頼家の「日来色を重んずるの御志、禁じ難きによって」と説明しています。
頼家は武家の棟梁であるという地位を利用して、家臣の妻を奪う暴挙に出たのですが、『吾妻鏡』が頼家の行動を「猥りに(みだりに:乱暴に)」と表現しているように、鎌倉時代においても頼家の行動は常識はずれの暴挙だったのです。
7月26日の夜、頼家は女性を幕府の石壺(幕府の北にあったので北向御所とも呼ばれていた)に連れてきて住まわせます。さらに、小笠原長経・比企三郎・和田朝盛・中野能成・細野四郎の5人の頼家側近以外はここに来てはならないとの命令を出します。
8月18日、三河での賊の反乱を鎮圧して、ほぼ1カ月ぶりに安達景盛が三河から帰ってきました。しかし、側室はもういません。景盛は家来に四方八方探させますが、見つかりません。
8月19日、安達景盛が側室の件で頼家に恨みをもっていると、頼家に讒言する者があらわれます。頼家は、その讒言を信じ込み(恨まれて当然のことをしているので、信じ込むのは無理もない話ですが)、小笠原らの兵士を石壺に集め、景盛を誅殺する命令を下します。
その日の夜、小笠原勢が甘縄の安達盛長(蓮西)邸に押し寄せたのを皮切りに、鎌倉中の御家人たちは武器を取って味方する陣営めざして集まり始めました。鎌倉は一触即発状態になったのです。
政子登場
ここで尼御台政子が登場します。政子はこの情勢をみて、安達蓮西邸に行き、二階堂行光を頼家のもとに使いとして遣わして伝えます。
頼朝公がお亡くなりになってから月日も経っていません。姫君(次女三幡)も6月末にお亡くなりになり(享年14)、悲嘆は一つにとどまらないのに、今、戦闘を好まれる様子が見えるのは、まさに乱世の源です。なかでも、景盛は頼朝公を信頼していたので、頼朝公も景盛を気に入っておられた。景盛に罪科があると思われるなら、私がすぐに尋問し、成敗もいたしましょう。事実も確かめもせず、誅戮を加えられたならば、きっと後悔されることになるでしょう。それでもなお彼を追罰しようと思われるならば、私がまずその矢に当たりましょう。
政子がいち早く安達氏の本拠地に乗り込んだことは、身を呈して合戦を防ごうとした意図があったことを物語っています。小笠原の軍勢も尼御台政子に対して弓引くことはできません。
政子は、安達邸で合戦にならないようにしておいて、頼家を諌める使者を安達邸から送ったのでした。
訓戒の言葉も、頼朝と三幡の死という深い悲しみに沈んでいる時期に戦闘を起こすことの非を説き、頼朝と安達景盛の固い主従関係を考慮しない頼家の無神経さ説き、事実に基づかない恣意的な誅殺の不当性を説いて、頼家の横暴を悟らせようとしたのでした。
このように頼家に非があることを説いても、まだ景盛を討とうとするなら、母親である自分がその矢に当たろうとまで言っているのです。
ここまで母が間に入っては、頼家も安達を討つこともできず、討伐命令を撤回しています。
しかし、政子は先のことを見据えて安達景盛に助言を行います。
翌日も政子は蓮西宅に泊り、安達景盛を呼んで、
昨日ははかりごとをめぐらして、いったんは頼家の無謀な行いをやめさせることができましたが、私はすでに老婆です。後々このことを頼家が恨むことがあっても、それを抑えることはできないかもしれません。だから、景盛の方から頼家を恨むことはないという起請文を頼家に献上しなさい。
と助言しています。
政子が間に入ったことによって、頼家が景盛を逆恨みすることまで配慮し、そのようなことが生じないように景盛に起請文を起こさせたのです。政子の思慮深さ、用意周到さが表れています。
景盛の起請文を持って幕府に帰った政子は、起請文を頼家に渡すついでに頼家を戒めます。
昨日、景盛を誅殺されようとしましたが、粗忽の至りであり、このような不義は見たことがありません。およそ今の情勢を考えると、国内の守備はなっていない。政治に倦んで民の憂いを考えていない。他人の妾をわが物にし、人のそしりを省みていない。
また、召し使っている者も賢人哲人にほど遠く、主君に邪佞(媚びへつらう)に属する者たちです。言うまでもなく、源氏は幕府を作り上げた功績のある一族で、北条は私たちの親戚です。頼朝公は北条氏を大切にされ、常に座右にお招きになっていました。それなのに今は北条氏に対してお褒めの言葉がないばかりか、皆をさげすんで実名で呼ばれるので、各々は恨みを残すという噂があります。それでも、事態に対して冷静な対処をなされたならば、今は末法思想でいう末代であっても、合戦がおこることはないでしょう。
政子は、頼家の政治姿勢を糾弾しました。国内の守護という将軍の務めを果たしておらず、民の憂いを省みず、他人の妾を自分のものにするのにうつつを抜かしていることを非難し、頼家が召し抱えた側近の資質が悪く、実家の北条氏を蔑視していることを非難しています。
文中「実名で呼ぶ(実名を喚ばしめ)」とありますが、中世においては「将軍」「武蔵守」のように、官職や位名で呼ぶのが礼儀にかなっていて、相手を実名で呼ぶのは、侮辱することを意味していました。
北条氏は、頼家から軽んじられていて、実家が軽んじられていることに政子は我慢がならなかったようです。
頼家が、なぜそのような態度をとったかというと、頼家の妻は比企氏の出身で、外戚の比企氏の思惑があったと考えられます。
むすび
安達景盛や北条氏を軽んじる頼家に対して、政子が怒りをぶちまげたのは、頼朝が可愛がった御家人たちは、政子自身が目をかけた御家人だったということがあげられます。
頼朝と政子は、将軍と御台所として、御家人と主従関係で結ばれていました。ですから、政子にすれば、頼朝の御家人は自分の御家人でもあり、御家人の総意を生かす政治こそ政子が望む政治だったと言えます。
側近を優遇し、独裁政治を行おうとする頼家の政治は、政子には受け入れがたい政治だったのです。
参考文献
田端泰子『北条政子』人文書院。
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