2代将軍義詮は、マイナーな室町将軍の中でも、マイナーな室町将軍ですが、義詮は何かと頑張った将軍で、その頑張りがあったからこそ3代将軍義満が花を咲かすことができました。
将軍足利義満が太政大臣になって、公武のトップに君臨したことはよく知られていますが、この義満の大出世には、父義詮が築いた朝幕関係の基盤があったからこそです。
ということで、今回は義詮と朝廷の関係について着目しましょう。
天皇の意志に逆らう義詮
1349年(貞和五年)8月に高師直のクーデターによって直義が失脚すると、10月に鎌倉にいた義詮が上洛して、叔父直義が担っていた政務を継承し、その後は常に京都にあって父尊氏の留守を守っていました。
4度も南朝に京都を奪われるという不名誉な記録を作っていますが、その都度天皇や公家を連れて京都から退いていますから、なんだかんだと顔は売れていました(正確には1度目は連れていかずに退いたことから、後々困ったことになっています)。
1366年(貞治五年)8月に斯波高経・義将父子が失脚し、越前に逃れると、幕府はまた執事(のちの管領)不在の状態となりますが、義詮は空席の執事職を補充することなく政務を行います。
義詮が将軍になったころ、幕府で大手を振って歩いていた宿老、たとえば仁木義長・細川清氏などが没落し、義詮自身も37歳になって経験も申し分なく、誰に遠慮することもなく政治を行えるようになっていたのです。
1367年(貞治六年)3月29日、清涼殿において中殿御会(ちゅうでんごかい)と呼ばれる和歌会が開かれました。後光厳天皇が臨席する公的性格の強い行事ですが、その朝廷儀礼に、幕府の将軍である足利義詮が参列したのでした。
きらびやかな衣装をまとった多くの武士を従えて、義詮は清涼殿に参上し、関白以下の公卿が着座する中、そこには加わらずに天皇の前に進んで対座しました。義詮は、天皇には敬意を表するが公卿とは同列ではないことを表現したと言われています。北朝・幕府に、もはや敵なしの義詮です。
この和歌会の際に、天皇の作った歌(御製)を読み上げる講師(こうじ)の人選をめぐって、義詮が天皇に抗議するという一幕がありました。
御製を読む講師には御子左為遠(みこひだりためとお)が指名されていましたが、御会の当日になって義詮が不服を申し立てました。この役目は冷泉為秀にやらせてほしいと三宝院光済を通して申し立てたのでした。
後光厳天皇は「すでに為遠に頼んでしまったから、いまさら変更できない」と返答しますが、「為秀は私の師匠なので、この人以外認められない。師範が面目を失ったときは、弟子は出仕しないというのが通例だから今夜の御会には出ない」と言い出し、後光厳天皇は義詮の主張を認めて、講師は変更ということになりました。
将軍義詮が天皇に対して臆することなく我を通し、屈服させることができるくらいに自身の地位を挙げていたのでした。
公卿を従える義詮
また、中殿御会の半月後、世尊寺行忠の家に関白二条良基が訪れ、義詮も招かれました。冷泉為秀もこの席にいましたが、ここで義詮のために作られた洲崎の箱と破子(弁当箱のようなもの)が披露されました。
飯菜や珍物を入れた洲崎の蓋の上には中殿御会の様子が描かれ、義詮や帯刀の武士たちの姿もその中にありました。ところが、それを見た義詮は怪訝そうに、「生きている人の似せ絵を画くというのは、どうもいただけない」ともらして周囲を慌てさせたといいます。世尊寺や冷泉、関白の二条良基は義詮のお近づきでしたが、この時代の義詮に対して多くの公卿たちがご機嫌とりに奔走していたのでした。
外交を担う幕府と義詮
ちょうどこの頃、朝廷と幕府は困った来訪者の対応に苦慮します。1367年(貞治六年)2月、高麗から使者が来日し、国書を提出したのでした。
朝廷が対応に苦慮したことから、とりあえず幕府が高麗使者の応対することになりました。4月には将軍義詮が天龍寺で使者と面会して彼らの舞楽を見物し、日本の舞楽も披露させました。その後、使者は奈良に赴いて東大寺大仏殿などを見物させています。
この間に、朝廷では高麗の国書に対する返書をどうするか審議されました。しかし、高麗の国書の文章が無礼だったことから返書は出さないという結論になります。
その国書の内容は「倭寇を日本側に取り締まってほしい」という要望でしたが、「高麗の『皇帝』から日本の『国主』」という表現を公卿たちは問題にしたのでした。
「皇帝」とか「天皇」「天子」とあるのならば納得がいくが、「和王」「国王」「国主」と書くのは無礼であると公卿たちは口をそろえて主張しました。
朝鮮半島の国では、朝鮮は兄で日本は弟と言われているようですが、日本にはそのような考えは全くなく、むしろ神功皇后の三韓征伐以来、朝鮮こそ日本に服属してきたという認識がありました。したがって、無礼な国書に返書を与えるべきではないのは当然の帰結です。
また、「倭寇を取り締まるといっても、九州はまだ北朝・幕府に服属していないので無理な相談です、ということを返書に載せたら、こちらの限界を見せることになる」と現実的な意見を述べた公家もいたようで、朝廷からは返書を出さないことに決まりました。
結局、このことに関しては幕府が対応することになり、朝廷は幕府に特別の制約を加えず、将軍義詮の名で返書が出されることになりました。義詮は使者に多くの土産を与えて帰国させました。この時、天龍寺の僧が一緒に渡海し、翌年に返礼の土産を抱えて帰国しています。
むすび
高麗使節の訪日に対して、朝廷と幕府はその応対に関わりましたが、朝廷は対応を議論するのみで、実際の対応は幕府が担い、返書も結局は幕府から出されることになりました。
朝廷と幕府が同じ京都で政治を行うようになってからすでに30年。朝廷の政務は続いていましたが、京都の治安維持は幕府の侍所によって行われるようになり、外交を担ったのも幕府でした。朝廷の機能を幕府が吸収していったのです。特に、外交は朝廷の専権事項だっただけに、幕府が高麗の対応を行ったことは公武の関係が入れ替わる重要なターニングポイントだったと言えます。
そして、最初に見たように、将軍義詮は一部の公卿を従えながら、天皇の意志に干渉し始めていました。幕府が朝廷を圧倒してゆく素地は、義詮の時代に形成されていたのです。
義詮が公武を束ねて政治を行うと思われたのもつかの間、同年12月に没します。そして、この流れは3代将軍義満に引き継がれたのでした。
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