源頼朝や足利尊氏の源氏は「河内源氏」と呼ばれています。河内源氏は名前の通り、「河内」を基盤とした清和源氏の一派。河内源氏の祖は源頼信で、今回お話する源頼義の父にあたる人物です。この頼信が積極的に東国との関係を築いたことで、河内源氏は東国で基盤を築くことになります。のちに、頼朝が鎌倉に幕府を開く源流は頼信に求められるのですが、東国での源氏の地位を確立した頼義の存在を無視するわけにはいきません。
今回は、源氏が東国で武士の棟梁と見なされるようになった「前九年の役」についてみていきましょう。
前九年の役のきっかけ
1051年(永承六年)、「末法」の年となる永承七年の前年に奥州で前九年の役に結びつく事件が起こりました。
源頼信の陸奥守就任
陸奥守藤原登任(なるとう)や在庁官人の軍勢が玉造郡鬼切部で、納税を拒否するなどの国司の命令を無視する俘囚(ふしゅう)の長・安部頼良(頼時)を攻撃するも、逆に大敗を喫したのです。
俘囚とは、朝廷に従い服属した「蝦夷」のことです。平安時代の初め、桓武天皇の時代に武力を用いて奥州の蝦夷平定が行われましたが、その結果服属した蝦夷を本拠地から引き離し、東北各地をはじめ全国に居住させました。このうち、陸奥衣川関以北に6つの郡が置かれ(総称して「奥六郡」と呼ぶ)、この六郡の郡司として俘囚を支配していたのが安部氏でした。安部氏は蝦夷系の豪族と言われています。
陸奥守藤原登任の軍勢が、安部頼良に大敗を喫するという事件に対して朝廷は、源頼信の嫡男頼義を陸奥守に任命して事態の収束をはかることにしました。
頼義の陸奥赴任後の1052年(永承七年)5月6日、関白頼通の姉である上東門院彰子が病にかかり、その平癒を祈って大赦が行われました。安部頼良はその罪が不問に付されます。頼良はこれを喜び、国守頼義に臣従を誓い、「よりよし」の同調をはばかって名を「頼良」から「頼時」に改めます。こうして、源頼義は安部氏を手なずけ、その役割を達成したかに見えました。
阿久利川事件
ところが、1056年(天喜四年)、任期満了を迎えた頼義が胆沢城の鎮守府で管内を巡検し、多賀城に帰ろうとしたところ、在庁官人の権守藤原説貞(ときさだ)の子光貞の従者が、「阿久利川」付近で何者かによって襲撃されるという事件が起こりました。
藤原説貞は、「かつて、自分の娘を俘囚に嫁がせることはできない、と断ったことを安部頼時の子貞任は深く恨んでいる。彼の仕業だ」と頼義に訴えました。これを聞いた頼義は、貞任を呼び出して処罰を下そうとしましたが、頼時は貞任の引き渡しを拒み、衣川関を封鎖して頼義に抵抗します。前九年の役はこうして始まったのでした。
開戦にいたる諸説
開戦の経緯については強引な部分があるので、事件の首謀者やその背景について複数の説が主張されてきました。まず、最も有力なのが源頼義の「陰謀説」。陸奥守重任を企てた頼義が、安部氏を挑発したというものです。奥州は馬・鷹羽・砂金などの産地で、北方との交易も盛んでした。国司として収益が莫大なものがあったので、頼義は陸奥国司の再任を企てたというものです。しかし、陸奥守の任期終了とともに頼義が陰謀に走るというのは、無理があると指摘されたりもしています。
次に、事件の発端が権守藤原説貞にあることから、開戦が在庁官人によって引き起こされたという説です。安部氏の圧迫に苦しめられてきた在庁官人が、頼義の在任中に安部氏に反撃したというものです。しかし、在庁官人の中には、藤原清衡の父経清のように安部氏に加担した者がいますし、俘囚の側にも安部氏に従わない者もいました。
結局、頼義が仕掛けた可能性が高いものの、在庁官人の内部分裂、俘囚の内部分裂が複雑にからんで、大きな事件に発展したと考えられているようです。
前九年の役
頼義から頼時「謀叛」の報告を受けた朝廷は、1056年(天喜四年)8月に頼義に頼時追討の宣旨を下します。頼義は軍勢を率いて、頼時が籠もる衣川関に軍をすすめました。頼義軍は、ごくわずかの精鋭の側近と、各地から動員した国衙兵力によって構成されていました。この時、のちの武士団といわれるものは存在していません。
なお、この軍勢には頼時の娘婿の平永衡と藤原経清がいました。藤原経清は、平将門を討った藤原秀郷の子孫で、のちの奥州藤原氏の祖です。
頼義軍は、在庁官人同士の対立などで足並みがそろわず、さらに頼義が配下の讒言により平永衡を斬ったことから、経清が頼義の軍を離れるなどの事態に発展し、戦果は上がりませんでした。
開戦の年の暮れ、合戦中にも関わらず朝廷は頼義の任期満了を受けて、藤原良綱を陸奥国司に任命しました。しかし、彼は奥州の合戦に怖気づいて下向せず、12月になって頼義は陸奥守に再任されましたが、泥沼の長期戦へと突入していきます。
頼義大敗
1057年(天喜五年)7月、頼義は朝廷に再度頼時追討の宣旨発給を要求し、頼時と同族の安部富忠に助力を求めました。それを知った頼時は、富忠が頼義に加勢することを思いとどまらせようと説得に向かいましたが、富忠の兵に襲撃されて落命します。これによって、貞任をはじめとする頼時の子息は結束し、奥六郡の入り口である衣川関を閉ざして抵抗の姿勢をみせます。
同年11月、追討官符を得た頼義は衣川関に向かいましたが、寒さと飢えに疲弊した頼義軍は、黄海(岩手県一関市)の合戦で貞任軍に大敗を喫しました。頼義は長男の義家を含む七騎でようやく戦線を離するあり様でした。
これ以後、頼義方は守勢に立たされ、国内の徴税もままならない事態となり、混とんとした状況の中で二度目の任期を終えることになります。
朝廷は、新しい国司に高階経重を任命しました。このことは、頼義の更迭を意味していますが、経重は文官だったことから、安部氏に対する軍事的行動を朝廷が放棄したことを示しています。しかも、経重は着任してすぐに帰京します。国内の人々が自分に従わず、前国司頼義に従うのを目の当たりにしたからでした。
頼義は任期満了直前に、出羽の山北三郡(雄勝・平鹿・山本)の俘囚の主である清原光頼・武則兄弟に財宝を贈って応援を求めました。その説得は、頼義が武則に名簿を捧げるというあり得ない行為でした。名簿を捧げるというのは従者になるという意味で、陸奥守頼義が俘囚清原武則の従者になることを意味していたのです。
清原氏参戦
しかし、その甲斐あって、1062年(康平五年)7月に清原氏は頼義軍への合流を決断し、8月9日には1万余騎と言われる清原軍が到着。頼義は3千余騎を率いて陸奥国府を出発し、清原軍に合流します。
7陣に編成した追討軍のうち、頼義が指揮する第5陣以外はすべて清原一族の指揮官で占められました。
追討軍のほとんどは清原氏の軍勢で、戦闘の主体も清原軍だったことから、戦いの性格が変化し、清原氏による安部氏追討と奥六郡支配が目的となっていました。
終結
頼義軍は、清原軍の加勢によって連戦連勝し、9月6日に衣川関、11日に鳥海柵が落城、17日には貞任の本拠厨川柵(岩手県盛岡市)を攻略し、貞任は深手を負って捕らえられます。そして、頼義の前で息を引き取りました。
頼義は厨川柵で貞任の首をさらしますが、この行為は源氏にとって象徴的な行為だったようです。のちに奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝は、頼義に倣って泰衡の首を厨川柵で晒しました。前九年の役の源頼義のパフォーマンスを持ち出すことによって、頼朝と東国武士との主従関係をさらに強固にしようとしたのです。
頼朝とは異なりますが、頼義に倣ったパフォーマンスは足利尊氏も演じています。建武政権に反旗を翻した尊氏は、後醍醐軍に敗れて九州に落ちますが、再起をはかった多々良浜の戦いに臨むにあたって、尊氏は赤字の錦の直垂に、唐綾威(からあやおどし)の鎧、宗像大宮司が進上した黒粕毛の馬に乗り、「前九年の役」で源頼義が安部貞任を征伐したときにつけた7つの印を、できる限り武具につけていたといいます。頼義の再来を演じることで、自軍を鼓舞したのでした。
前九年の役における頼義の戦いは、源氏の子孫を始めとする後世の武士たちに伝説的に語り継がれていたことをうかがい知ることができます。
藤原経清は捕虜となって頼義の前で処刑されて、その首は京都に運ばれて晒されました。その方法は、苦痛が長引くように鈍刀で斬首させたと言われています。
合戦の後、頼義は伊予守、義家は出羽守に任じられて朝廷内での地位を向上させます。頼義に加勢した清原武則は鎮守府将軍に任じられました。こうして、合戦は源氏に武士の棟梁としての地位の確立、清原氏に奥州における支配権の拡大をもたらすことになりました。このことが、後三年の役の原因となります。
参考文献
北山茂夫『日本の歴史4~平安京』中公文庫。
土田直鎮『日本の歴史5~王朝の貴族』中公文庫。
木村茂光『日本中世の歴史1~中世社会の成り立ち』吉川弘文館。
福島正樹『日本中世の歴史2~院政と武士の登場』吉川弘文館。
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