かつて、平安時代末期の院政期に白河法皇が「天下不如意」として、「賀茂川の水、双六の賽、山法師、是ぞ朕が心に随わぬもの」と嘆いた逸話があります。山法師は延暦寺の僧兵のことで、白河法皇を度々困らせたわけですが、300年後の室町時代においても山法師の活動は活発で、室町幕府を悩ますことになります。
時は1368年(応安元年)。義詮が死去して、10歳の将軍義満と管領細川頼之による幕府政治が始まったころです。鎌倉幕府が滅亡してから35年の歳月が経って、南北朝の動乱も終息に向かいつつある中、南都北嶺の僧兵たちが活動を活発化させます。足利直義以来、室町幕府の禅宗保護政策にたいする南都北嶺の反撃でした。
>>>最後のほうに、禅宗擁護が幕府の政策だったことを紹介しています
怒れる延暦寺
僧兵の活動が活発になったきっかけは、『続正法論』という延暦寺や園城寺を誹謗中傷した落書でした。
内容は「禅は最高で、真言・天台・法相・華厳・三論・律宗・成実・倶舎の八宗は足元に及ばない。さらに延暦寺の僧は猿、園城寺の悪党はヒキガエルで人ではない。奴らは南禅寺が発展して、春屋妙葩が人気なのを嫉妬しているだけ」というような内容だったそうですが、南禅寺住持の定山祖禅が書いたという噂が広まります。春屋妙葩は夢窓疎石の甥で、夢窓のあとを継いで五山派を統率し、禅宗最高の実力者でした。
定山祖禅が書いたという噂を聞いた延暦寺の衆徒は怒り、幕府に南禅寺を処罰するように訴え出ます。幕府の評定衆で、比叡山担当の山門奉行だった安威資脩(あいすけなが)は、これは落書で作者は不明だから訴えを受理できないと拒否すると、さらに衆徒たちはヒートアップします。
1368年(応安元年)閏6月21日、京都の犬神人に南禅寺を破壊させることが延暦寺の政所集会で決定されます。決行は27日でしたが、朝廷から綸旨を出したこともあって延期になります。
そこで、春屋妙葩・定山祖禅・安威資脩を配流にするように朝廷に訴えることになりました。そして、衆徒の宿老格8人が朝廷に赴いて、南禅寺の破却と三人の流罪を訴えました。当然、もし聞き入れられなければ、300年以上の伝統芸の「神輿を洛中に送りこむ」というメッセージが込められていたことは言うまでもありません。
困った朝廷は、天台座主尊道親王ら三人に衆徒説得を頼むも、ヒートアップした衆徒・僧兵は言うことを聞きません。
8月4日、日吉十禅師の彼岸所において集会がおこなわれ、朝廷・幕府に提出する29ヵ条の事書が作られました。「禅は日本にとって無用で仏法の虫害だから、朝廷も幕府も許してはならない。昔から、比叡山の護持によって朝敵が滅亡してきたことを忘れるな。武士は、八幡大菩薩と天台だけを崇めていればいいわけで、禅宗に心を惑わされてはならない」というような内容でした。
比叡山が、幕府の保護によって新たに台頭してきた禅宗を警戒していたことがうかがい知ることができます。
幕府軍 vs 比叡山
神輿の下山が近いと見た幕府は、京都の警固体制を固めます。比叡山と京都の通り道(現在の京都御所北東から一乗寺・曼殊院方向)だった中賀茂・糺河原に赤松則祐・山名時氏・六角氏頼らの宿老級の軍勢を配置し、内裏近辺の法成寺には一色範光・吉見氏頼らの軍勢を配置します。そして、管領の細川頼之は土岐頼康らとともに将軍義満邸に籠もり、内裏の警固にあたりました。
この延暦寺の騒動をめぐって、大名たちの意見は分かれ、山名・赤松・六角などは延暦寺の言い分を聞き入れることを進言し、細川や土岐は頑なに拒むというやり取りがありました。結局、神輿が来ても仕方がないという結論にいたります。
前線の糺河原に、延暦寺の言い分を聞き入れることを進言した山名・赤松・六角が配置されていることから、頼之は本気で衝突する気はなかったとも言われています。
8月29日深夜、日吉神社の神輿が4基送りこまれ、2つは内裏の北門に到着、二つは糺河原に鎮座しました。僧兵がいなかったことから衝突には至りませんでしたが、幕府軍の兵も神輿にひれ伏す有様でした。翌日には4つの神輿は八坂神社に鎮座します。
幕府はそれ以降も強硬姿勢を崩さなかったことから、翌1369年(応安二年)4月20日夕刻になって大勢の僧兵が神輿4基を擁して内裏近辺に乱入します。
幕府側は昨年の厳重な警固を解いていました。まず、侍所の土岐義行(頼康の養子)が手勢を率いて法成寺近辺を警固し、赤松則祐の軍勢が三条河原近辺に展開します。そして、六角氏頼が家人を率いて細川頼之の軍勢に加わり内裏を警固しました。
僧兵たちは内裏まで押し寄せ、西の唐門前で衝突が起こります。それぞれ、2・3名の死者が出たようですが、六角氏頼の活躍もあって内裏に侵入することもなく、神輿は八坂神社に戻っていきました。
この騒動によって、強硬姿勢を続けることが困難と考えた頼之は、南禅寺にあらたに造営された山門を破却することを決定します。7月27日に山門の解体が開始され、8月3日の朝になって柱を残して破却は完了。この日に神輿は日吉神社に戻っていきました。
その後
これを機に、頼之は禅宗の統制を強めます。直義以来、禅宗を保護してきた政策は、頼之によって転換することになりました。
しかし、京中の禅寺住持はいっせいに寺を退いて、頼之に無言の抗議を行います。1371年(応安四年)に頼之が春屋妙葩を南禅寺の住持に任じましたが、妙葩は任命の辞令を持って訪れた頼之との面会を拒み、丹後に逃れます。妙葩の子弟も頼之を拒否し、怒った頼之が230余人の僧籍をはく奪するという事件が起こっています。五山派と頼之の関係は完全に決裂して、頼之失脚まで続きます。
参考文献
佐藤進一『日本の歴史9~南北朝の動乱』中公文庫。
山田邦明『日本中世の歴史5~室町の平和』吉川弘文館。
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